足跡(寺社)102・朝日地蔵尊から安楽寺……2019.11.4

日記帳をめくったら、今はなきシネマカフェで五目湯麺の昼食を摂ったとある。直接散歩はしないので、一旦家に帰り14時を過ぎてから出発したようだ。天気が良かったとはいえ精力的だった。

武蔵小山商店街パルムの北側、ちょっと変則な「後地(うしろじ)」交差点にあるスーパー「LIFE」の入り口に……(品川区小山2-7-14)
 蛇足ながら、リライトだから写真はそうとう省略しているが、当時の日記を振り返るとこの写真まではおんぼろデジカメを使っていた。傾きだした陽がまぶしく綺麗に撮れなかったので、次の写真からスマホに切り替えたようだ。楽天にアップするにはスマホの画像は大きすぎて、いちいち修正が必要だったからデジカメにしていた。

「朝日地蔵尊」……偶然、先日も載せたが、寛政元年(1789年)に建てられた道標が右にある。「右 不動尊・左 仁王尊」と彫られているが、元の場所から僅かながら移動したので方向が左右反対になっている。

戸越村の有志によって寛文7年(1667年)に建立された。扁額には、安産・厄除・子育とあった。安産も子育ても私には無縁だが、お賽銭を入れて御信言を唱えてきた。
 西日を浴びているのに、なぜ朝日地蔵かと思いきや、修業のため毎日夜明け前に浄真寺を出発して増上寺まで通っていた九品仏浄真寺の開山珂碩(かせき)上人が、ちょうどこの地蔵堂あたりまで来ると朝日が昇るため、いつしか朝日地蔵と呼ばれるようになったらしい。

八光会商店街・親友会・京栄会とちょこちょこ名称の変わる商店街を歩くと「京極稲荷神社」がある。(品川区小山2-15)
 かつてのこの辺りの地(品川区小山2丁目14番から17番)にあった、讃岐国丸亀藩主・京極家の下屋敷(約8,400坪)に、鬼門除けとして伏見稲荷から豊受大神を勧請し守護神としていたのだが、明治4年1871年)の廃藩置県で、京極家は当神社の管理を地域住民に委ねて帰国する。その後、大正7年(1918年)2月、地域の有志が譲り受けた現在地に神社を移して奉祀したとのこと。(移動した距離は短いようだ。)

下屋敷からは、野菜や薪(たきぎ)を上屋敷などに供給していたことから、京極家と地元農民とは結びつきが強かったらしい。小学校の旧正門の石柱を加工し、平成9年(1997年)に再建された御影石の社号碑と祠の土台からは今も結びつきが衰えていないことが伺える。今では、京極家の戸越屋敷をうかがい知る唯一のものが京極稲荷神社だ。

京極稲荷から東に250mほどのところで左の路地をみたら、またお稲荷さん……

「國藏五柱稲荷大明神(こくぞういつはしらいなりだいみょうじん)」(品川区荏原1-25)
 由緒は不明だが地元の守り神として鎮座している。きれいに拭かれたガラスケースからは、地元の方々の思いが伝わってきた。ちなみに、その後遷座されたかもしれない。

中原街道を歩くと、マンションの入り口に……北方100mの辻にあったが、昭和38年(1963年)の区画整理でここに移された。

「旧中原街道供養塔群」……中央の大きい地蔵菩薩は総高1.9mで、造立年代は不詳ながら江戸中期のものだろうと。

右の「地蔵菩薩」は延享3年(1746年)で、寒念仏供養のため
 左奥「馬頭観音」は元文元年(1736年)造立で、その時代にこの戸越本村に馬持講(うまもちこう)があったことを示すものだと。目黒区もだが、品川区も馬と共に暮らす人々が多くおいでだったのだろう。馬の無病息災はもとより、世話をする人々の安全も願ったことだろう。
 左前「聖観音(しょうかんのん)」は墓碑……貞享年間(1684~87年)とのことだが、いずれにしても江戸中期から後期の庶民の信仰状況が伝わってくる。
 ※ 「寒念仏」=「僧が寒の30日間、明け方に山野に出て声高く念仏を唱えること」(デジタル大辞泉)

中原街道を北東に、桐ヶ谷通りを越えて一つ目の角、左の植木の後ろに……

「子別れ地蔵」(品川区西五反田6-22)……桐ヶ谷の火葬場に続く道筋で、子に先立たれた親が、その亡骸を見送った場所であったとされる。親より先に亡くなった子は、火葬場まで送っていかれず骨も拾ってあげられなかった時代。
 小石が積まれていた……「一つ積んでは父の為 二つ積んでは母の為」……泣きながら昼夜を問わず賽の河原で石運びをさせられる子に代わり、親が積んだ石。

享保12年(1727年)に建てられた地蔵菩薩だが、悲し気に見えるのは戦禍で傷ついてまったこともあるのだろう。

小別れ地蔵尊から北に歩くと「安楽寺」(品川区西五反田5-6-8)

山門左の奉納幟には「稲守陀祇尼尊天」とあり、扁額は「稲守稲荷社」だった。由緒は不明だが、狐と鏡の後ろには御簾(みす)がかけられていた。

提灯が何とも言えないが、門柱の上には仁王が立っていた。

安楽寺境内……右の庫裏が道路側

天台宗寺院の安楽寺は松園山宝林院と号し、比叡山延暦寺の直末で、弘治2年(1556年)創建の天台宗寺院。表側は「松園山」で、内側には「安楽寺金堂」の扁額がかけられていた。本尊は阿弥陀如来三尊仏だったが、脇仏だった観音と勢至両菩薩は戦災で焼失してしまったと。戦争反対。南無阿弥陀仏……

金堂の左側に、左から連理塚・塩掛地蔵と夢違観世音菩薩がお並び。
 連理塚は『皆様ご存知の白井権八、小紫の墓所で、目黒にあった虚無僧寺が廃寺になりそこにあった墓を明治19年に、檀徒の要請により移転したもので、位牌等があったが、戦災により焼失、戦前は歌舞伎上演の折は役者衆の参詣が恒例になっていました。(天台宗東京教区)』二人の来世での幸せを祈って建てられたという「比翼塚」は目黒不動尊仁王門前にある。
 赤装束のお地蔵さん「塩掛地蔵」は、塩を備えてお願いすると成就するとあって、塩が供えられていた。

夢違観音から奥に向かって並ぶ品川区指定史跡「安楽寺供養塔群」。戦前戦後道路の拡張などにより、道の辻などにあった庚申像などを移転したそうだ。庚申塔、題目供養塔、馬頭観世音供養塔など、江戸初期から大正期に至る石碑が並んでいるようだが、残念ながら「馬頭観世音道標」だけは撮りそこなったらしい。おそらく、奥に離れていたのだろう。

左の梵字の板碑はなんだろう。
 中央は黒御影石に馬頭観世音と彫られている。昭和37年(1962年)のもので、すでに牛馬の時代ではないだろうと首をかしげるが、願主の回顧の念により建てたのかもしれない。
 右の地蔵菩薩像は寛文10年(1670年)だが古さを感じず綺麗に保存されている。

左は三面六臂に頭上の馬頭がしっかり分かる「馬頭観音」。1600年代の造立だろうが、姿が良い。
 右は、左から見ざる、聞かざる、言わざるの順に並ぶ典型的な三猿のみの庚申塔。残念ながら三猿の上の文字は読み取れないが、青面金剛の文字が書かれているのだろう。

左は誠に見事な彫りの庚申塔。寛政11年(1779年)造立のようだがしっかりしている。青面金剛が踏みつけている邪鬼は2頭のようだ。
 右は月日に青面金剛と三猿が描かれた延宝元年(1673年)の庚申塔。左より100年も前のものだが、左は100年後もここまで劣化はしないだろう。

左は日月と三猿に「南無青面金剛」と彫られた延宝8年(1680年)の庚申塔
右は宝永8年(1711年)造立で、そうとう朽ちているが、青面金剛像と三猿が彫られた庚申塔

観世音菩薩の横顔を拝みながら失礼することに……

時刻は15時23分……まだ寄り道をした私だった。

今日の「My First JUGEM」は……『杏子にメジロ……』