2020年の初散歩をした1月9日のこと……ちゃんと西小山のホットドック・モーニングを食べ、一旦帰宅してからの散歩だった。
「中町天祖神社」(世田谷区中町3-18-1)……社号碑には「天祖神社」あるが、他所と区別するため一応中町を付けた。
神仏分離の明治時代、全国にあった伊勢の内・外宮の神を祀った「神明社」あるいは「神明宮」と称した神社が「天祖神社」へ改称された。宮の称号を一般の神社が使うことが禁止になったのが一番の要因とされる。だからどこへ行っても天祖神社なのだと理解した。
何度も前を通過したが、目的地ではなかったし寄り道するには奥深そうなのでスルーしていた私。前年暮れに訪問した等々力不動尊が満願寺の別院と知り、そこを目指すついでに遠回りのルートに入れてみたのだった。
参道の並木はイチョウとケヤキのようだが、この季節は寂しい。春になったら撮り直しに行こうかしら? と思いながら今日まで再訪はしていない。ちなみに一之鳥居は昭和38年(1963年)と新しい。
真っすぐな参道を進むと、途中左手に手水舎……
並木参道を抜けると大正10年(1921年)の二之鳥居が迎えてくれる。台座の上の狛犬は新調されたようだ。
二之鳥居をくぐると左に神楽殿……昭和の時代に建てられたのだろうが立派な姿。
社殿……取りあえず新年の御挨拶をしたが、当時の日記を振り返ると、連れ合いに貰ったお賽銭用がま口がデビューした日だった。
創建年代や社殿の建替え時期などは不明だが、昔ながらの鎮守の様相が状態よく維持されている。
現在は「中町」一帯の鎮守だが、旧村名は「野良田村」であり野良田村の鎮守であった。その野良田の地名が田舎臭いとの不評もあったようで、世田谷区が成立した折に野良田がなくなったそうだ。それでも野良田と呼ぶ人は多かっただろうに、時代の流れに置き忘れられただろう。
社殿左側に「境内社」……
石碑には「阿夫利神社」(左) ・「日枝神社」(右)と彫られている。
石のようなものが3つ……
よく見ると上に「弁財天」の札があるということは、石碑にあった「阿夫利神社」と「日枝神社」が合祀されたのではなかろうか。石に浮かび上がる蛇らしきは、弁天様の神使である蛇であろう。古代インドにおける川の神(水神)だった弁天の神使は「蛇」や「龍」だとされたが、海のイメージも加わり「亀」も神使とされているらしい。
境内社右に力石が置かれていた。
社殿前は広々としていたが、創建当時はこんなものではなかっただろう。
参道方向を見ると「社務所」があるのだが、常駐する神職はおられない。等々力玉川神社が兼務されているが、掃き掃除などは近隣の方がなさっておいでなのだろう。
神輿蔵の脇の……
西に向いた裏の鳥居から失礼した。
天祖神社の別当寺「金剛寺」に向かう途中で来た方をふり返るとフォルクスの駐車場。この日の訪問のず~っと前に、ダブテンを食べに連れ合いと散歩で行った店だ。また二人で散歩が出来れば良いのだが、なかなか叶わない。
今日の「My First JUGEM」は……『茗荷(ミョウガ)出た……』