足跡(寺社)86・馬頭観音をみながら「八雲氷川神社」……2019.6.2

サラリーマンを辞めてからは満員電車にも乗らないし、運動不足解消にと少しずつ歩くようにしていた。当日の目的をどこにしようかと考え、とりあえず日記に載せ始める以前の散歩で目にしていた街角の馬頭観音を訪ねてみた2019年6月2日のこと……
 日記帳を振り返ると、歯医者で精密根管治療(マイクロエンド)なるものを受けていた時期だった。治療はずいぶん前に思えるが、この日の散歩はそんなに以前とは感じられない。

フェアレディZ-432やポルシェ356、ロータス47GT/60なんて古い車を眺めながら(今日は写真は載せない)目黒通りを歩くと、右のビルの植え込みに……

しっかりした箱に「中根西三叉路馬頭観音庚申塔」が収まっている。(目黒区中根1-25-17)

頭の大きな左は「馬頭観音」で、右は青面金剛の「庚申塔」と見受けられるが、どちらも風化が進んでいて年代は分からない。庚申塔は道標を兼ねていたのかも知れないとうかがえる痕跡があった。

何処へ行こうか考え、目黒通りを渡って八雲の住宅街でこんなのをパチリ。わざわざ足を止めなくてもいいのに見ると撮りたくなるのが私の悪い癖だ。

坂というほどではない「氷川坂」を進むと……

氷川神社」(目黒区八雲2-4-16)……子どもの頃、祖父に連れられてお祭り見物をした遠い記憶がよみがえったので寄ってみることにした。当時の楽天ブログには「遠い日の花火」の文言があった。

一之鳥居をくぐってすぐ左に「地蔵尊」……

体が病んでいるときにお地蔵さんの同じ場所をなでると治るとの言い伝えに従って、みなさんになでられてすり減り、幽霊地蔵のお姿になってしまった。

二之鳥居……参道は長い。両側に露店がぎっしり並んでいた景色がよみがえる。

三之鳥居……幼少の頃の記憶から訪問したと思っていたら、当時の日記には「先月、連れ合いが行ったので私も行ってみようと思った」とも書かれていた。なぜ連れ合いが訪問したのかは記憶にない。夜になったら教えてくれるかもしれない。

旧衾(ふすま)村の鎮守「氷川神社境内」……明治22年(1889年)に衾村は碑文谷村と合併して碑衾村になったが、碑衾村って言葉は祖父から幾度も聞いた。

参道右に「手水舎」……手水盤は4体の石像「力持ち」が支えている。

慶雲4年(707年)に創建したと伝えられる八雲氷川神社……祭神は素戔嗚尊(すさのうのみこと)、稲田姫命(いなだひめのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)

いくつも目にしたことのある「日露戦役紀念碑」……やはり乃木希典の書だった。

社殿左側手前に「神楽殿」と「絵馬殿」……9月には素戔嗚尊の「八岐大蛇(やまたのおろち)退治の物語」を表現している「剣の舞」が奉納されるそうだ。

絵馬殿は神楽殿とつながっている。

奉納されたものが並んでいたが……

どれも古そう……

そうとう劣化が進んでいたが、大丈夫なのだろうか?

社殿右側の渡り廊下の下を、くぐれそうなので行ってみた。

境内社「奥ノ宮」への参道……

参道左側に、かつてのご神木(アカガシ)の名残が置かれている。

奥の宮……安政6年(1859年)奉納の狛犬に対して、社は新しすぎるのだが、昭和57年(1982年)に放火により焼失したために再建されたそうだ。

扁額には手名槌命・足名槌命・倉稲魂命……先に「境内社」と表記したが「摂社」という扱いになるのだろう。

奥ノ宮の右に2基の庚申塔……

こちらは不明……分からなくても撮っておくのが私の悪い癖。

社殿を背にして、三之鳥居が運命の分かれ道だった。一之鳥居まで引き返すつもりはもうとなく、写真方向左に向かったのだが、右へ歩けば隣接するかつての別当寺「金蔵院」を訪問出来た。(結局、後日出直した。)

独り反省会で後悔したのだが、当日は参道の途中の横道を東に歩いた私だった。幾度も後悔をくり返してきたが、今は「それでよかった」と思える。

今日の「My First JUGEM」は……『首を垂れるクリスマスローズ……』