令和元年東日本台風と命名されているようだが、多くの被害をもたらした大型の19号が伊豆半島に上陸したのが10月12日だった。秋雨というのか、その後もスッキリしない天気が続くなか「ちょっと歩いてこよう」と出かけた2019年10月20日のこと……
なにで知ったか記憶にないが、馬頭観音を求めて馴染みのない街中へ……「もつ焼き ばん」駒沢通りの店舗はよく見かけるが、ここが本店なのかしら?とパチリ。 いつも常連さんで満員らしい。
目黒銀座商店街奥のこんな所にこじんまりと鎮座していた。(目黒区上目黒2‐14‐6)
小規模の乳牛牧場や馬力運送を業とする者が多かったこのあたり……牛馬の息災を護り、死後の菩提を弔うため、東松山市上岡の妙安寺から霊験あらたかな馬頭観音の分霊を勧請し安置したことに始まる。
提灯には「目黒馬頭観音」とあるが、昭和31年(年)12月に「目黒銀座観音」と改称されたようだ。
大正12年(1923年)に妙安寺住職を招いて盛大な入仏開眼式が執行されたと。分霊と、その後に祀られた木彫りの馬頭観音像(24.3㎝=約8寸)が安置されているのだろう。
翌年3月に執行された第1回大祭には、50数頭の馬も参列したそうだ。
絵馬もちらほら……みなさん、望みはそれぞれ。
社殿右わきに小さな手水盤……初代かもしれない。
左には立派な手水舎があった。
境内左側に、ずらりと並んでいた。(当時、楽天ブログにアップするには画像容量が大きく、事前処理が面倒なので多用していなかったらしいが広角を撮るにはスマホは便利だった。)
奥の、石を割ったような塔には「馬頭観世音菩薩」とあり、明治40年(1907年)の造立。手前の「馬頭観世音」と彫られた角柱型は昭和6年(1931年)のもの。でもって右は……
境内で唯一、半跏の馬頭観音が彫られていた。昭和47年(1972年)と新しいが、まさに馬頭観音と分かる。
小さいのは良く分からないが、左は大正10数年……
社殿左奥の一番大きな「馬頭尊祈念碑」とあるのが「勧請記念の碑」だ。「大正12年7月19日」「武州上岡妙安寺住職十九世佛光書」と彫られている。
ちなみに、東松山市にある曹洞宗寺院・妙安寺は境内に馬頭観音を祀る観音堂を有し「上岡の観音様」と呼ばれ、霊験あらたかさは関東地方随一らしい。こちらの石碑は19世住職の手によるものだが、妙安寺の馬頭観音は17世愚禅和尚が流布に務められたと。精神は今も受け継がれていることでしょう。行ってみたいが東松山は遠い……
とてもコンパクトだが、ちゃんと後ろに本殿がある現在の社殿は昭和10年(1935年)の建築。
観音堂の後ろは目黒銀座児童遊園……私の後方には東横線が走っているから、この景色は車内からも確認できるが、連れ合いは見つけられるだろうか。
ちなみに、区内には馬頭観音が13カ所に残されているという。いくつ見たかな~
中目黒駅近くから一気に南下して下目黒4丁目の住宅街を歩き……
この駄菓子屋さん、まだやってるかしら……
撮り忘れていた石碑を求めて、通常コースではなく初めての裏道をウロウロして……
あったあった……左の民家の門の脇……
「瀧前町講中道標」(下目黒4-20)……上部におられるのは合掌した地蔵菩薩坐像。法界萬霊の文字の両脇に「右 目黒道・左 祐天寺道」と彫られている。明和5年(1768年)建立で、瀧前町とは当時のこの辺りの地名らしい。すぐそばにある「獨鈷の瀧」と名づけられた霊泉の湧く「瀧泉寺(目黒不動尊)」に由来した地名だろう。
当然、この道標が当初からこの場所にあったとは考えにくいが、保護・保管されていて嬉しく思う。
蛇足ながら、区内の道標で一番多く登場するのは「池上」であり、日蓮宗寺院・本門寺の方角を示しているが、「目黒」「祐天寺」「九品仏」と寺院を指すものが多い。一番遠くを指すのは「大山」だな~
今日の「My First JUGEM」は……『連れ合いが買ってくれた……』