足跡(寺社)61・池上馬頭観世音堂から徳持神社……2019.2.10

池上七福神の内、未訪問だった「馬頭観音堂・大黒天」「微妙庵・毘沙門天」と「曹禅寺・布袋尊」を訪ねてみようと出かけた2019年2月10日のこと……

本門寺総門の南西・池上3丁目あたり……歩きやすい歩道だが、わき見するとポールにぶつかる。

ちょいと進むと良い感じ……明らかに暗渠路。

「小泉次太夫物語 用水工事」……水利土木技術を代々受け継ぐ家に生まれた小泉次太夫徳川家康の家臣として江戸に入り多摩川の治水奉行に任命される。幾たびも氾濫する多摩川で荒廃していた村を救うため、農業水路の開削と新田開発に尽力したとされるが、最も尽力したのは村民。女性までかりだされてご苦労さまでした。
 時は変わっても、毎年繰り返される水害……昔とはけた違いに力を発揮する重機もある現在だが、残念ながら本気で対策に取り組む姿勢は政府からは伝わってこない。

変則交差路の真ん中になにやらあった……

駐車場にポツンと独り題目塔……さすが日蓮宗本門寺の街だ。南無妙法蓮華経

用水跡を思わせる道は続くが……

池上警察署の裏通りを右折すると、小さくて分からないだろうが、ちょこちょこ振り返りながら私の行き先を猫が招いてくれた。

池上七福神……くたびれた看板が目に入る。

嫌な予感がしたが石段を上ると……

今にも壊れそうな門扉は閉ざされていた。なぜか郵便受けもあった。

馬頭観音堂」(大田区池上3-20-4)……『現在、馬頭観音堂の改修工事のため、大黒様は養源寺でお預かりして、恵比寿様と並んで安置されております』と張り紙がしてあるが遠い。門扉に貼ってくれないと読めない。
 今日、調べ直して分かったことがある。訪問時にあった張り紙のとおり、2018年12月より2020年1月までの間、大黒天は「養源寺」に一時的に仮移動されていたが、2020年2月からは「本光寺」に移動されていた。従って池上七福神から同観音堂の名前は消え、本光寺が正式に加わったようだ。改修工事が頓挫したかは分からない。

荒れた庭には石碑があったのだが、入れないので由緒由来は不明だ。

仕方なく石段を下りるが、どっと疲れが出た。

気を取り直して毘沙門天の微妙庵を求めて南下したのだが、遠くから呼ばれてしまった。鳥居に覆いかぶさるような桜の木。春には絵になる。

裏口入社の気配はしたのだが、苔をまとった狛犬は立派だった。

裏参道から回り込んで「徳持神社」社殿(大田区池上3-38-17)とご対面。
 創建は建長年間(1249~1255年)に豊前(現在の大分県)の宇佐神宮よりご分霊を勧請した。その後「池上競馬場建設(4年足らずで廃止)」のために遷座したり、さまざまあったが現在立派に存続している。「久が原西部八幡」「久が原東部八幡」「諏訪神社大田区多摩川)」「東八幡神社大田区矢口)」「十寄神社(大田区矢口)」を兼務されている。(蛇足ながら、これら全て訪問した。)
 御祭神は、誉田別之命(ほんだわけのみこと)十五代高応神天皇とのこと。誉田別之命は源氏一族をはじめ武人の神様でもある。

社殿前に、社務所であろう建物から突き出していた「神楽殿」……まか不思議な光景。

社殿に向かって右側に、(柵で囲まれた)手水舎と境内社の鳥居。

ここまでしっかり囲みのある手水舎は初めてだった。

この巨大な手水石も初めて……

境内社「徳持田中稲荷神社」……つらなる朱色の鳥居をくぐる。

徳持神社社殿とともに昭和41年(1966年)に再建されたと。

右の狐は神様のご神徳を象徴する宝珠(ほうじゅ)、左は知恵の象徴である巻物を咥えている。

たぶん神輿庫だろう。

空はこんな具合だったのね。きっとお腹は空いていただろう。

拝殿では、なにか神事が執り行われていたようなので、静かに静かに失礼してきた。

私の後ろは池上通りだった。道路まで出ないと写真に納まらない大鳥居だったから、これで勘弁した。
【附けたり】2020年2月15日の写真

新たに池上七福神に名を連ねた「法壽山本光寺」(大田区久が原2-19-17)には、2020年2月15日に訪問している。ちょうど正式に「大黒天」が祀られた時だ。

元禄12年(1699年)に紀州徳川家から寄進された七面天女像(日蓮宗系において法華経を守護する女神)が安置されている「七面堂」に貼り出されていた。現在は境内に立派な大黒天の祠が建てられているようだ。
 当時の日記を振り返ると、馬頭観音堂の改修工事の都合で「養源寺」からこちらにたらい回しをされたのかと思っていた私。安置場所が正式となった月に出かけたことが判明し、今日はすっきりした。リメイクして良かった。

今日の「My First JUGEM」は……『みんな連れ合いがやってくれる……』