足跡(寺社)57・池上本門寺此経難持坂から永寿院・妙見堂……2019.2.4

池上梅園の梅状況を確認してから山王の龍子記念館までジグザグに歩いた2019年2月4日のこと……

池上三院家の一つ理境院の朱色の山門を出ると、そこはすでに池上本門寺の総門内だった。

池上本門寺の石段……加藤清正(1562~1611年)の寄進によって造営されたと伝えられ「法華経」宝塔品(ほうとうほん)の偈文(げぶん)96文字にちなみ、96段に構築されている。
 ※  偈文とは『仏教で、偈を記した文章』……偈とは『仏典の中で、仏の教えや仏・菩薩の徳をたたえるのに韻文の形式で述べたもの』と辞書にあった。ちなみに多くは「げもん」と読ませるみたいだが、上記で「げぶん」としたのは、境内の説明文に記されたまま引用した。
 ちなみに、右側に白くみえるのはつづら折りの「女坂」で、確かに緩やかだが161段ある。96段の1.7倍程になっちゃうが、現在の私にはありがたいかもしれない。

石段を登りきると本門寺仁王門の手前……「此経難持坂(しきょうなんじさか)」

転がり落ちませんように……前日は追儺式法要と福男・福女による豆まきが行われたから、大変な人出だっただろう。

それまで歩かなかった境内を歩くと「日蓮大聖人説法像」……宗祖七百遠忌記念として昭和58年(1983年)に富山県新湊市の黒谷美術株式会社より奉納されたもので、斯界の権威 北村西望先生の制作とのこと。険しいけれど、良い御尊顔だった。

墓地の一角に「日本看護婦会慰霊塔」……『昭和12年(1937年)に勃発した日華事変から大東亜戦争終結までに日本赤十字が派遣した救護班は960班、延べ人員33,156人の「戦時救護看護婦」が戦地に派遣され、戦地における敵襲・病院船への魚雷攻撃・病院勤務中の空襲・原爆による殉職救護員は1,143名、負傷者は4,689人に達した。しかし従軍したのは日赤の看護婦だけではなく、陸・海軍の召集看護婦「ひめゆり学徒隊」等女学生にも及び、その方たちの犠牲を合わせると殉職者の数は膨大な人数に上るが、正確な記録は残されていない。』そうだが、次のさらなる事実を私は知らなかった。
『戦後、昭和25年(1950年)に朝鮮戦争が勃発した際、九州地方では日赤をはじめ国立、公立、民間から千人以上の看護婦が再び召集され、米軍博多キャンプの野戦病院において米軍看護婦の指揮下で働かされ、また南朝鮮の戦場に送られ米軍傷病兵の看護にあたらされた看護婦もいた』……と……現首相はご存じなのかしら?
 殉職した従軍看護婦の慰霊碑・慰霊塔は「日赤」をはじめ「靖国神社」「山梨県護国神社」「舞鶴引揚記念館」「呉海軍基地」などなど全国各地にあると聞く……合掌……戦争が繰り返されないことを切に祈る。

墓地南側を東に歩くと「朗師坂(ろうしざか)」……朗師とは日蓮門下六老僧の一人、日朗(1243~1320年)のこと。日朗は祖師入滅後、寺窪(現在の照栄院付近)に草庵をつくり、以後30有余年毎日この坂を上り、山上の日蓮御廟所(ごびょうしょ)へ参拝したそうだ。みなさんご立派な方ばかりです。

降り切ると池上小学校……照栄院からだったら此経難持坂を上るよりはるかに近いと思うが、当時は石段なんかじゃなかっただろう。

墓地の切れ目を南東に入ったあたり、池上会館の東側に「永寿院」山門……寛永7年(1630年)7月、本門寺16世心性院日遠聖人の隠居所として開山された。堂宇を完成させたのは日遠聖人の弟子・日東聖人(本門寺17世)によるもので、当初は日東聖人の法号に因み「蓮乗院」とよばれていたそうだ。

「不変山永寿院」……本院所蔵の日蓮聖人御尊像底部には、寛永7年(1630年)と開眼年が墨書きされ、胎内にはお題目と仏師の名が記された文書が収められているとのこと。 本堂は、明治末と大正年間に二度の火災に遭っているようだが、ご尊像を救い出された先師の思いの深さに感じ入る。現本堂は昭和52年(1977年)落慶。本堂前の松の枝ぶりは、いまでも脳裏に残っている。

山門を入ってすぐ左に「見守り観音堂」……種々な難に遭うときに『南無観世音菩薩』と一心に称えれば難を逃れることができると言う。多くの人々の祈りが込められている観音様だが、救いの手を素直につかめない人、そんなうまい話はないと疑いの心を起こす人。そんな人々の受けとめ方によって、千手観音・十一面観音・如意輪観音馬頭観音など様々に姿を変えて観音様は私たちの前にお姿を現す。悪事と知りながら私腹を肥やし「答えを差し控える」と言ってのける者たちに差し伸べる手は持たないだろう。

永寿院の近くに「妙見(みょうけん)堂」……裏口から失礼。

お堂をまわりこんだ反対側に「妙見坂」の石段……前回 麓の「照栄院」まで訪問した際、運悪くバッテリーが切れたので上ってこなかった。

前回のリベンジとばかり、少しだけ下ってから参道を上りなおした。

坂上にも標柱があった。

「妙見堂」……慶応2年(1866年)の再建で、明治時代に増築工事がされた。
 加藤清正の娘・瑤林院(ようりんいん)が手刻し、初めは本門寺に納め、後に昭栄院に移されたという「妙見菩薩立像」(木造寄木造り、玉眼、彩色、箔押。像高43㎝)が奉安されている。この像を安置する厨子扉に記された銘文から、寛永4年(1664年)に徳川家康の子で紀州徳川藩の祖である頼宜(よりのぶ)の「現世安穏後生善処(げんせあんのんごしょうぜんしょ)」を祈念して造像されたことがわかると。当時の本門寺貫主・日豊(1600~1669年)の開眼墨書銘があり、製作年代、由来等が明確な妙見像として貴重とのこと。

手水盤の年代は確かめて来なかった。

本堂にむかって左の境内奥に並んでいる……以下に左から

「いぼとり地蔵」……初めは呑川の南に鎮座した村方の地蔵菩薩だったが、河川の氾濫改修等で徐々に北に移動し、ついに妙見堂まで上がってきたと。いぼに悩む人が参拝し、祠から小石を一つ頂き、朝夕それを患部に当てると不思議にいぼが落ちると伝えられている。いぼが治ったときはその石ともう一つの小石を祠に納めるので、祠は小石であふれるため時々 土に埋めると。幸い私はお世話にならずにすんでいる。

チャンギー受難者慰霊碑」……第二次世界大戦の後、シンガポールチャンギーでBC級戦争犯罪人とされた日本の軍人軍属の裁判があり、多くの被告が極刑宣告を受けてチャンギーで処刑された。照栄院の住職だった田中日淳上人は教誨師として死刑に立ち会ったとされるが、幸いにして極刑を免れ日本に帰国した人々が相談して、ここに慰霊碑を建立したと。慰霊祭は、毎年4月の第2日曜日に営まれるとのことだ。戦争や紛争のない世界になることを切に祈る。

「不思議いい話」……昔々、伊豆から一人の若い僧が「檀林(だんりん)」にやってきた。学期が終わった後、彼は一人妙見堂に籠って一週間の断食行……学問を修めていつかは貫首(かんしゅ・かんじゅ)になりたいと一心に祈る。行を終えてもうろうとしながら妙見堂の参道に立つと、大樹のもとに立つ一人の老人が言った。「仏道の修業は猊座(げんざ)」に上って高価な法衣を着るためではない。地に降りて人々のかたくなな心の衣をはがすためだ」と……僧がはっとすると、もう老人の姿はなかった。数年して学成った彼は故郷に帰るが、後年、再び妙見堂を訪れたとき、あの大樹は台風で倒れていたのだが、彼はその木で老人の姿を彫らせてここに納めたと……
 ※ [檀林]=仏教寺院における僧侶の養成機関。
 ※ [猊座]=仏のすわる座。転じて高僧の座。

「樹老人祠」……池上七福神の一つだが、残念ながら初代の樹老人像はいつのまにか失われ、現在の像は後年の再刻。持ち去った人はお返しなさい。

来るべき年の善星皆来悪星退散(ぜんせいかいらい・あくせいたいさん)を祈り、毎年12月の冬至の日に「星祭り」が営まれるそうだ。早朝より十数人の僧侶が交代で読経を続ける他、午後1時には本門寺の貫首さまもお見えになり読経と法話をされるとのこと。拝聴したいものだが、歩いて行かれるかしら? 12月22日、寒いだろう。

今日の「My First JUGEM」は……『いけない誘惑……』