足跡(寺社)62・微妙庵(毘沙門天)から曹禅寺(布袋尊)……2019.2.10

未訪問だった池上七福神の「大黒天」「毘沙門天」と「布袋尊」を訪ねてみることにした2019年2月10日のこと……

徳持神社を後にすると、同一区画に「毘沙門天」の大きな看板を発見……小さなお寺だったから、看板と幟がなかったら見過ごしたかもしれない。(大田区池上3-38-23)

「微妙庵(みみょうあん)」……扁額も幟も「毘沙門天」一色だが、元禄2年(1689年)、本門寺塔頭の覚源寺の堂宇として建立された「教善坊」に始まり、宝暦年中(1751年)に蓮沼近くから現在の地に移転して「微妙庵」と改称されたようだ。

海中出現の「毘沙門天」がいらっしゃった。
 池上本門寺のHPに以下のようにあった。(手抜きで引用させていただく。)
『安永2年(1773)9月10日、江戸に向かう舟にて品川の海を渡っていた小原甚助(15歳)は、船中の中で唯だ一人、海中に光輝く仏像を見つけ、それを拾い上げる。そのまま家主の物置に入れて数日、主人の木原市之助が突如、高熱で倒れ、八方手を尽くしても薬効なく、最後の頼みと占い師に問えば、汝の家にその因ありと告げられる。使用人を集め、一同に問いただすと、甚助が海中に光輝く仏像を拾い上げたることを語る。早速、木原氏はその仏像を床の間に安置し、法華経を読誦すれば忽ち熱が下がる。それに驚き、感謝の唱題を数日続けると神夢を見る。
「吾れ、数年、荒波にもまれ、鉾と宝塔を失えり」
 木原氏は直ぐに仏師に依頼し、その鉾(ほこ)と宝塔を備え、初めて北方の守護神・悪鬼を除く毘沙門天と心づく。これは有難き法華経の大山(池上本門寺)麓に生まるる法徳なりと覚え、池上本門寺第三十世日利上人に開眼を請う。然るに海中出現の毘沙門天は霊験あらたかにして、在家に奉安しがたく、徳持の北にあたる微妙庵にて格護することとになる。
 その後、参詣祈願する者の諸病を平癒し続け、昭和20年4月24日夜半の空襲にて諸堂は灰燼に帰するも、毘沙門天は加護により難を逃れる。現在、安置さるる本堂は、昭和44年11月3日、町内各有志信徒のご協力・ご尽力により、再建、現在に至る。』
 お供えのワンカップ大関……親しみがある。

本堂左側に地蔵尊(左)と「イボとり観音」と称される馬頭観音(右)が並んでいた。寿老人を祀る「妙見堂」におられたのは、いぼとり地蔵尊だった。

「初寅祈祷会」2月10日と書かれていた。開始は午後2時だったようだが、私が訪問した時(13時14分)には行列などなかった。出発前から知っていたら御祈祷を受けさせてもらったのに。元来、毘沙門天の縁日が寅の日なので、一年で最初の寅の日に毘沙門天に参拝すると福徳をいただけると伝えられるようだ。御祈祷会には参加しなかったが、当日拝めたことは良かった。

微妙庵を後にして南に歩き、池上線のガードをくぐる。4トン車以上は通れないかもしれない。

ほぼ当てずっぽうに歩いて、寺院らしきを発見。

住宅街の中に端正なお寺(大田区池上7-22-10)……山門前右手に灰皿があった。ありがたやありがたや。

「大乗山曹禅寺」山門……日蓮宗ではなく曹洞宗の寺院だった。「禅」の字が付くと分かりやすい。南無釈迦牟尼仏

意外や意外……歴史は比較的新しく、昭和7年(1932年)にそれまでこの地域になかった禅宗寺院をと創建したらしい。
 本堂石段右にある太い柱は、昭和9年(1934年)の室戸台風で流出した「京都三条大橋欄干の柱」とのこと。なぜここにあるのかは不明だが、知りたい。

参道右手には、大きい石や岩で庭が作られていた。不確かだが、正月の七福神めぐりの時は水を流すという説もある。

参道左手は庫裏か寺務所か……

墓地へ通じる渡り廊下の手前に……

おられました……

布袋尊」……優しいお顔にりっぱなお腹。福徳・円満・忍耐を授ける弥勒菩薩の化身とされる。
 池上七福神巡りは、7ヶ寺の内 唯一の禅寺である同寺からがスタートするのだが、禅宗布袋尊とは関りが深そうだ。今日は深堀りしないが、山手七福神布袋尊を祀っているのは港区白金台にある黄檗宗寺院・瑞聖寺だった。

布袋尊の隣に「筆塚」……小さい地蔵さんは青い帽子。

笠付角柱型の石碑……

墓石だろうか……お姿は阿弥陀仏かもしれない。

「池上平和観音」の後ろ姿……昭和20年(1945年)4月15日の池上地区の空襲被害者を悼み、冥福を祈ると共に町内の平安と世界の平和を祈り願って昭和43年(1968年)10月10日に建立されたようだ。願っても願っても止まない戦争は悲しい。

今日の「My First JUGEM」は……『ピーポくん……』