足跡(寺社)58・堤方神社・法養寺……2019.2.4

梅園の梅調査の後、池上三院家の一つ理境院などを訪問し、本門寺を抜けて山王を目指して北東へ向かった2019年2月4日のこと……

妙見堂を後にして、少し歩くと寺院の案内板……

左手に大森四中のグラウンドを見ながら歩くと、見えてきた景色はお寺らしくなかった。

「堤方神社」……社殿の脇に出た。

「堤方神社鳥居」(大田区池1-15-2)……けして広くない境内だが、拝殿へまっすぐ伸びる参道は気持ち良い。右の工事中はおそらく神楽殿と推察していたが、とっくに完成していることだろう。

手水舎には似合わない岩をくりぬいたような手水鉢は古くからのものだろう。おそらく現在は使われていないと推察するが、あるべきものがあってこそ。

堤方神社社殿……『創建の年代はわからない。もと若宮八幡社とよばれていたが、明治42年(1909年)旧堤方村村内にあった三所神社(江戸期には熊野社といった)、十二神社(江戸期には十二天社といった)、稲荷神社と境内社の稲荷神社を合祀し、翌43年に現在の堤方神社と改称した。(大田区の神社より)』ご神祭は大鷦鷯命(おほさざきのみこと)・仁徳天皇とのこと。
狛犬は新しいから、次は手水盤が奉納されるかもしれない。

大木も高い所まできちんと手入れされていた。とことん青い空はとても気持ちが良い。

堤方神社の端から南東の景色……池上本門寺境内からここまでが高台のようだ。

二分咲きの紅梅……こんなことをして遊んでいるからタイムロスばかりの私。

堤方神社と向き合うように「法養寺」山門(大田区池上1-19-25)……

参道わきにはビニールシートがかけられていたが、失礼して……

山門を入って右に、供養塔だろうか……

供養塔らしきの隣にも小型の堂宇があったが、残念ながら不明……伺って来ればいいのだが、誰もいらっしゃらなかった。わざわざ庫裏まで行って尋ねるほど熱心ではないし、なによりお手を煩わせては申し訳ない。

「法養寺本堂」……勿論、日蓮宗のお寺であり本門寺の子院(しいん)=「大きな寺の境内にある偉いお坊さんの住坊。禅宗では塔頭(たっちゅう)と称すみたい」だと思ったのだが……『天正15年(1587年)頃、神田三河町に開創。慶長年間(1596~1615年)幕命により下谷稲荷町に移転。江戸城西御丸と大奥の祈祷所となり「わら店の法養寺」とよばれた。また、境内に熊野稲荷大明神を祀り、江戸市中の信仰を集めた。
 明治43年(1910年)当地にあった妙教庵と合併し、翌年この地に移った。妙教庵は、もと当地にあった蓮光坊が荒廃したため9代将軍徳川家重に仕えた妙教尼が寛保3年(1743年)に再興した寺である。』……と日蓮宗ポータルサイトにあった。なるほど、合併した妙教庵の名を残すために同寺の山号を「妙教山」とした理由が分かった。

境内の片隅に「一心欲見佛」……新編法華経439頁に「一心欲見仏(いっしんよっけんぶつ)不自借身命(ふじしゃくしんみょう)」とあり、「一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜しまず」ということだと。政治家先生たちには「一心欲見民」であってもらいたい。
 ちなみに日蓮宗HPには、住職からのメッセージとして「知恩報恩」と記されていた。恩を知り、その恩に報いること。多くの人に支えられて当選した恩を、すっかり忘れている議員が多いように見受ける。国民ではなく、派閥への恩返しが一番なのだろう。

本堂前からの境内……枝垂れ桜が咲いたらきれいだろう。

堤方神社(左)と、法養寺(右)の間のこの道は、目前から下り……

やっぱり坂道「めぐみ坂」……坂を下った右側に「大森めぐみ教会」があるため、そう呼ばれることが多いようだが、明治中期、徳富蘆花(ろか)の小説「富士」に出てくる料亭「あけぼ乃楼」が現在のめぐみ教会敷地にあった頃は「あけぼの坂」と呼ばれたようだ。坂の名前も時代と共に変わってしまうのね~
 ということで、今日は少し余裕があったから古い寺社訪問の焼き直しにした。

今日の「My First JUGEM」は……『鮪フライ作った……』