足跡(寺社)59・長勝寺・太田神社……2019.2.4

朝食抜きで池上から山王を目指した2019年2月4日のこと……蛇足ながら日記を確認したら昼も抜きだった。

法養寺山門前から南東へ下る「めぐみ坂」……当日は、駐車中の車の前を左(北東)に進路をとった私だが、あとちょっと坂を下りたら「妙雲寺」という寺院があったと独り反省会で気付いた。堤方神社の旧別当だったとのことで、未訪問を残念に思っている。

とても変則なこの辺りの道を、とにかく山王方面を目指して北東方面に歩くと「長勝寺山門」(大田区中央6-6-5)があった。

正保3年(1646年)の開創で、開基檀越は新井宿村の郷士・田中長勝氏の名から「長勝寺」と称するようになったとされる。
 ※  檀越=施主

枝垂桜は春の彼岸頃より咲き始めるようだ。小さなお堂が薄紅色に染まる姿は拝見したい。

本堂扁額……覚應山 長勝寺

獅子舞みたいな本堂の瓦……こんなのも撮っていたようだ。

こちらは、まさに鬼瓦……「大増長天王」と書かれているようだが、増長天とは仏教の守護神らしい。

来年の3月20日頃、桜を見に行くよう日記帳に記しておく。

供養塔……不受不施派の巨頭、池上本門寺の15世長遠院日樹聖人(1574~1631年)は幕府の裁許により信州飯田に流された。その日樹聖人の三十三回忌に近在の信徒集団によって建てられた供養塔。この地に不受不施信仰が深く根ざしていた証だ。

同寺には、江戸幕府によって弾圧された不受不施派のリーダーの一人・大野法蓮寺(千葉県市川市)18世日完上人によって開眼された「日蓮聖人坐像(非公開・大田区文化財)」がおさめられているとのこと。

【附けたり】2020年9月30日の写真
 南麻布の絶江坂を上がったところで、初めて「不受不施派」の寺院「龍華山若松寺」に遭遇した。市谷にあった「自證院」が不受不施の禁令によって改宗(おそらく天台宗)することになると、日正上人が麻布本村町に「自證庵」として再建された後、昭和17年(1942年)に「若松寺」と改称したようだ。もちろん気軽に立ち入りはしなかった。

長勝寺と同一区画を歩くと「太田神社」の鳥居(大田区中央6-3-24)……当然かつての別当長勝寺であろう。鳥居の扁額は石造りのように見受けた。落ちませんように……

たやすそうに思えたが、上れども上れどもまだまだだった記憶がある。

登りきると境内……右手手水舎の隣に朱色の鳥居……

境内社……

お狐様がおいでだから「稲荷社」だろう。この写真からも、高低差が見て取れる。

太田神社の主祭神誉田別命だが、明治期に近隣の「竃神社(かまど、と読むのかしら?)」「稲荷神社」「貴船神社」を合祀したようだ。
明治34年(1901年)に奉納された阿吽の狛犬は、左右共に子持だった。

「一願必中」の幟がはためいていた。……那須与一公の守本尊を御神体としてお祀りすることから、勝負事をはじめ良縁成就、家運興隆など願えば叶わぬことなしと多くの人々に信仰されてきたようだ。扇の的を一発で射抜いた那須与一、だから「一願必中」なのだろう。社殿や神楽殿東京大空襲で焼失したようだが、御神体は旧別当寺「長勝寺」に安置されていたため免れたと。現在の拝殿が再建されたのは昭和28年(1953年)のことらしい。くどいが、一刻も早く戦争がなくなるよう願うしかない。

社殿前左側に「神楽殿」。手前は神輿庫だろう。

社殿前から参道の眺め……ちなみに現在は連れ合いも知っている「上神明天祖神社」の兼務社となっているらしい。「蛇窪神社」と言えば分かるよね~ 大のヘビ嫌いが、撫でてきたものね。

社殿裏からも道はありそうだったが、行き止まりを含めてとにかく歩きにくいエリアなのでとりあえず石段を下りることにした。

武蔵野台地の端っこに鎮座していることが良くわかる太田神社だった。

太田神社から山王1丁目を目指し北東へ歩くと閑静な住宅地をゆるやかに上って行く「蓬莱坂」……今、名前の由来を調べたら大田区のHPに『由来は、坂近く、中央5-4-2にある稲荷社にちなむといわれています。江戸時代、三代将軍家光のころ、稲荷社の境内で珍しい黒い鶴が捕らえられ、これを将軍家に献上したところ、吉兆であると喜ばれたと伝えられています。蓬莱(ほうらい)とはその吉兆を象徴した名であり、そこから現在の坂名がつけられられたようです。』とあった。
 ここで言う「稲荷社」とは「黒鶴稲荷神社」のことらしい。上って行けば見かけたかもしれないが、目指す方向が違うから私は右に……残念だったが仕方ない。来春、長勝寺の枝垂桜を見に行けたら寄ってみよう。
しかし、写真を見ると記憶ははっきり蘇るものだ。すっかり忘れっぽくなったのに……

今日の「My First JUGEM」は……『なぜかハンバーグ食べた……』