足跡(寺社)60・締めくくりに山王草堂記念館と尾崎士郎記念館……2019.2.4

池上から山王を目指した2019年2月4日のこと……寺社ではないが、最終目的地だったから載せておく。

太田神社から住宅街の蓬莱坂を横目で眺め、とにかく環七方向に歩くと「佐伯山緑地」(大田区中央5-30-15)……栄養学の父と言われる佐伯矩(さいきただす)博士が世界で最初に創立した栄養学校の跡地で、敷地の一部である約3000㎡の土地が大田区へ寄付されて公園になっている。見晴し広場からは、大森、蒲田、糀谷、羽田方面を見渡すことができるって。目的地方向へは園内を横切りたかったが、アップダウンを諦めて周囲をまわってこれまた路地を抜けると……

「龍子記念館」……川端龍子(1885~1966年)の文化勲章受章と喜寿とを祈念して1963年に設立された。当初から運営を行ってきた社団法人青龍社の解散にともなって、1991年から大田区が事業を引き継いだそうだが大田区の予算確保も大変だろう。大正初期から戦後にかけての140点あまりの龍子作品が所蔵してあるそうだ。あいにくというか、ラッキーというか、当日は月曜日だったから休館だった。(入館料を要するところは遠慮している。)

記念館の向かい側に「龍子公園」……旧宅とアトリエが保存されているみたい。

川端龍子……昭和期の作品が好きだ。平面でありながら、奥行きと風がなびくさまの感じられる画風は圧巻。金閣炎上は力強さだけでなく不思議な魅力がある。横山大観と同じような時代を生きたのだが、お互いをどう思っていたのか興味がある。「大観VS龍子展」なんてのをやってくれたら有料でも観に行く。

(途中の道は省略)一気に環七を越えて馬込銀座交差点から「山王商店会」へ……「山王かまぼこ」店のおでん種・練り物買いたかったが、荷物になるから我慢した。

最終目的地「蘇峰公園」(大田区山王1-41-21)に到着……徳富蘇峰(そほう)の居住跡「山王草堂」がある。以前、大森を歩いた折の独り反省会で存在を知り、徳富蘇峰のことは名前すら知らなかったが「知ってみよう」と行ってみた私だ。

徳富蘇峰銅像」……『明治から昭和期にかけて活躍したジャーナリスト、評論家。「国民之友」を主宰・創刊し、1890年に「国民新聞」を発刊。当初は平民主義を主張したが、後に皇室中心の国家主義思想家として活動。作家の徳富蘆花実弟。』(2006-07-15 朝日新聞 夕刊 文化芸能1 より)
 蘇峰は知らなかったが、作家・徳富蘆花(ろか)は私もコピット知っている。蘆花は、兄とともに雑誌を発行した「民友社」の記者から作家になった。兄弟そろって秀才だったのだろう。

「山王草堂記念館」……月曜日なのに開いていた。入園無料もありがたかった。
 昭和61年(1986年)に大田区静岡新聞社から蘇峰の旧居を譲り受け、昭和63年(1988年)4月に開館したそうだ。

与謝野晶子夫妻を初め、勝海舟などゆかりのある人々から寄せられた書簡が多数展示されていた。管理者の方が丁寧に説明してくれたが、私には存じ上げない方も多く恐縮至極だった。「よくご存じなんですね」と言うと「学芸員から教えてもらいました」とおっしゃっていたが、勉強しないとすらすら言葉にできない。時には学芸員による説明会もあるそうだ。それこそ予備知識なくしては参加できない。連れ合いは参加してみたいだろうな~

斎藤茂吉は私も知っている。「蓮華寺小吟」とあるのは「近江番場八葉山蓮華寺小吟」の原稿だろう。字が下手な私は、上手とは言えない茂吉が益々好きになった。

「書斎」……2階にあったのを1階に再現したようだ。代表作とされる『近世日本国民史』は、大正7年(1918年)56歳のときに着手し、昭和27年(1952年)90歳にして完結。全100巻のうち半分以上を大森山王時代に書いたそうだ。
 ちなみに蘇峰は大正13年1924年)この地に移り住み、昭和18年(1943年)熱海伊豆山に移るまで山王草堂に暮らしたとのこと。

外に出ると、同志社英学校(現同志社大)時代の恩師・新島襄氏が、アメリカから持ち帰った種を蘇峰に贈ったと伝えらる「カタルパの樹」があった。アメリカ原産の落陽樹で、6月には香りのよい白いベル状の花をつけ、秋にはサヤエンドウのような実をつけるらしい。
 池もある庭園には、昭和15年(1940年)中国山東省にある「孔子廟」からもたらされた苗木を、正装した蘇峰自らが移植したとされる「ランシンボク・欄心木(和名)」も見られた。毎朝草堂の一木一草に挨拶をかわす蘇峰は良い人だ。私も毎朝 庭の草木に挨拶するが……

記念館の裏木戸近くに「成簣堂文庫跡」の標柱……収集した10万冊におよぶ和漢書が保管されていたとされる文庫はここにあったのだろう。

園内をぐるりと回り、正門の反対側に行くと、写真の階段わきに背が低く若いカタルパの木が目に入った。札に「カタルパの小径 開通記念樹・平成25年6月」と書かれていたから、この裏口は2013年に整備したのだろう。

カタルパの小径を出ると、路地の突き当りに……

尾崎士郎記念館」(大田区山王1-36-26)……昭和29年(1954年)に建てられた居宅のうち、書斎、客間と書庫を再現したそうだ。

昭和39年(1964年)に66歳で亡くなった尾崎士郎は、せっかく建てたのに10年しか居住できなかったことになる。まだまだ生きたかっただろう。

建物内には立ち入れなかったので、木戸をくぐって……

庭に入ってみた。狭い庭だが南側にまわると、ふんどし姿で鉄砲の稽古をしたとされる「ケヤキの木」がある。相撲好きで有名だったらしく、昭和7年(1932年)大森相撲協会を結成して文士仲間と相撲をとり、戦後は横審の委員も務めたそうだ。(ケヤキの写真もあるが今日はカット)

『エネルギッシュな執筆活動を伝えるために、特に机周りの雑然として雰囲気を活かした展示を行っている』とされている書斎らしいが、しっかり整理整頓されている。

酒を愛した作家の居間……お猪口や徳利は実際に愛用した物なのだろう。

尾崎士郎が癌で危ないらしいと耳にした文士仲間の川口松太郎が送った色紙……尾崎士郎の臨終まで枕頭の床の間に飾られていたとされる。川口松太郎は知らないが『愛染かつら』の作者とのこと。

書庫らしきには、川端康成吉川英治谷崎潤一郎などの本が目に入った。

「人生劇場」の碑があった。昭和8年(1933年)に都新聞に連載され、昭和10年に挿絵を担当した中川一政の斡旋で出版されたが人気がなかった。そんな折に川端康成が絶賛すると一変して一躍有名になり、様々なシリーズが刊行されるようになったと。川端康成様様だが、川口松太郎を初め、認め合えた仲間たちがいたことは喜ばしい。

陽も陰りだしていたから藤棚の下のベンチには腰掛けず帰路についた。
ほぼ5年前の散歩だが昨日のことのように感じる。元気だった私が懐かしいが……

今日の「My First JUGEM」は……『今年は失敗した河豚ヒレ……』