足跡(寺社)39・善慶寺・山王熊野神社……2019.01.10

大森貝塚から、南側の山王地域を歩いた2019年1月10日のこと……

八景天祖神社から池上通りを下って行くと「MEGAドンキ」……あちこちで目にするが、ドン・キホーテには入ったことがない。ましてやMEGAがあるとは知らなかった。世捨て人のように思われそうだ。

MEGAドンキを過ぎた所で「村社熊野神社」が目に付いた。目指していた模型店とは逆方向なのだが、足が勝手に進んでしまった。

神社を目指したはずだったが、路地を進むと寺院の山門らしき。手前の掲示板に「日蓮宗」って書いてあるから間違いなくお寺だが、奥に鳥居も見えた。

「善慶寺」本堂……もとは法光山と称して正応5年(1292年)に建立された日蓮宗の寺院。建立以来、七百年を超えて連綿と法灯が継承されているとのことだが、同寺が一般に知られているようになったのは1677年に起きた義民六人衆事件との深い関わりによるものらしい。蛇足ながら、現本堂と書院は昭和5年(1930年)建立とのこと。(大田区山王3-22-16)

本堂左側の奥に鳥居を見つけた。寺の山門から一之鳥居へとつながる参道……神仏習合時代の典型的な姿がはっきりと残っているのは珍しい。

熊野神社」参道……正面へと進む石段と、右にもある。正面を「男坂」、右を「女坂」と呼ぶらしいが、どちらも楽ではない。

中腹に境内社らしきが見えたので、とりあえず右側の石段を上った。

「衆善稲荷神社」とあったが、かつては単に稲荷社だったようだ。「衆善」は後にちょっと書く「新井宿義民六人衆」に由来するのだろう。

女坂の衆善稲荷からも上まで行かれそうだったが、一度もどって男坂を上りなおしした私……一応男の子だから。

二之鳥居の所に手水舎……センサーが付いているようで、近づいたら水がでてきた。電灯は点きっぱなしだったかもしれない。

手水舎左にも道があったが、とても危険そうだったのでパスした。昔々の石段なのだろう。

やっとこさ上って境内到着……旧新井宿村鎮守のうちの一社。

「山王熊野神社社殿」……創建年代は不詳らしいが相当古いだろう。旧別当寺はもちろん善慶寺。祭神は「伊邪那岐命(いざなきのみこと)」「速玉男命(はやたまおの みこと)」「事解男命(ことさかおの みこと)」のようだ。

コンクリートで再建された社殿とは対照的に「神楽殿」は少々年季が入ってる。フルオープンだけど、台風などの時は大丈夫なのかと心配した私。

八景天祖神社の石段とは大違いで歩きやすいが要注意……両社とも高台にあるが、当社が鎮座する高台は、古くは「荒藺ヶ崎(あらいがさき)」と呼ばていたそうだから、昔は「荒藺ヶ崎熊野神社」とされていたかもしれない。

善慶寺境内にもどって「新井宿義民六人衆の墓」……江戸時代、旱魃(かんばつ)や洪水・長雨などの天災にもかかわらず、過酷な年貢収奪に耐えかねた村民は減免を願い出たが黙殺された。延宝4年(1676年)、勇気ある百姓6人が将軍家綱に起訴しようとしたが、密告によって捕えられたあげく処刑されたとのこと。歴代のご住職が彼らの遺骸を当山墓域に葬ったということだ。密告した者は、一生心を痛めて暮らしたことだろう。
 ちなみに、新井宿義民六人衆は高校の教科書にも掲載されているらしいが、私は知らなかった。歴史も嫌いだったから。

天地人災物故者之各霊」「戦死病没殉難之各英霊」と両脇に刻まれていた。風車も立っていたから水子供養も考えられる。

お釈迦様がお休みになっていた。永代供養墓のようだ。

コンパクトだが趣のある山門を後にして、模型店は向かったのでありました。

今日の「My First JUGEM」は……『11月のハイビスカス……』