足跡(寺社)119・庚申塔と地蔵尊を見ながら「金蔵院」……2020.1.9

中町天祖神社金剛寺、等々力玉川神社と満願寺を巡った2020年1月9日のこと……

満願寺をあとにして目黒通りを上り、等々力6丁目の交差点から上野毛通りに入った所。左側の両面通行「上野毛通り」と右側の「古道」とが交わるちょっと危ない場所が訪問先だった。一方通行路であるが「古道」と記したように右側の路の方が上野毛通りよりも古い。昔々の人々は、二子の渡しを経て高津へ向かうこの古い街道を歩いたことだろう。
 この場所は幾度か歩いていたが、車が停まったり流れたりしていたのであきらめていたのだが、この日は何とかなった。

横断歩道などない場所を、左右をキョロキョロして渡ってパチリ……とにかく横断しにくいし危険だからだろう花など供えられていない。私も合掌してから2ショット撮って、即撤収した。

一番右の大きい石塔の正面上部には地蔵座像が彫られているように伺えるが、左右側面には「右 大山道 二子渡し」「左 影向寺中稲毛江」とあり道標となっているようだ。
 中央の赤みがかった石のようなものは、まったく想像がつかないが地蔵尊であったのかもしれない。
 左の庚申塔は、青面金剛はしっかりしているが、おそらく足元にあったであろう邪鬼と三猿の姿は伺えない。
 庚申塔の前に新しいそうな地蔵立像が横向きに置かれているのは、センターにおられたかもしれない地蔵尊の再建かもしれない。
 ※   道標にある「影向寺」は、威徳山月光院と号す天台宗寺院。天平11年(739年)光明皇后が眼病を患った折、聖武天皇の夢の中に一人の僧が現れ「此処に伽藍を建立し、薬師如来を安置し奉るならば御平癒となるでありましょう」とのお告げを受け、天皇の勅命により翌年に伽藍がそびえたとのこと。川崎市宮前区に現存する古刹……訪問してみたい。

八雲氷川神社には以前(2019.6.2)訪問したのだが、なぜかお隣をスルーしたので、三之鳥居前を左に……

氷川神社参道をそれるとすぐそこに……

ワンブロック左にある「みどりの散歩道 呑川・柿の木坂コース」は歩いたが、こちらへは初訪問だった。

「氷川山虎空蔵寺金蔵院(ひかわさん こくぞうじ こんぞういん)」(目黒区八雲2-4-26)……垣根も山門もなくコンパクトだが良き風情だった。この後、梅の咲いている時期にも再訪した記憶がある。

わずかな石段を上って失礼すると、手前に「歓喜天(かんぎてん)堂」で奥に「本堂」……

無縁供養地蔵……『氷川神社の地蔵さんが導いて八雲の宅地一帯に埋もれている無縁仏の供養と地の神の供養をしてほしいとの夢を見て奉納』されたようだ。

歓喜天堂内……『歓喜天は梵名をナンデイケーシュヴァラといい、歓喜自在天・難提自在天・大聖歓喜天と訳されています。一般には……諸願をかなえる力も強いけれど、反面、約束を守らなかったりすると、大変恐ろしいといわれている天部の尊です。(高野山霊宝館より)』……約束は守らねばならない。説明責任とは口ばかりの政治家さんたちは恐ろしい目にあうかもしれない。
歓喜天の姿は、頭部が象の形であらわされ、いわゆる象頭(ぞうとう)人身の姿をしています。その姿には大きく分けて単身像のものと、双身歓喜天として二尊が抱きあう姿のものがあります。(同館)』……象頭人身とは怒らせたらさぞや怖いことだろう。やはり約束は守ること、あるいは初めから約束などしないことのどちらかだろう。

歓喜天堂脇にお立ちの「南無大師遍照金剛」……『南無とは、敬意や尊敬を表すサンスクリット語の「ナモ」を音写した仏教用語であり帰依するという意味があります。大師とは偉大なる師を意味し、真言宗の開祖である弘法大師空海のことを指します。遍照金剛は弘法大師が唐に渡り密教を学んでいた時に付けられた灌頂名(かんじょうめい)です。(滝本仏光堂より)』

弘法大師像が出迎えてくれるように真言宗寺院。同寺は智山派で玉川八十八ヶ所霊場第五十三番札所。この日に訪問した3ヶ寺とも真言宗寺院で、それぞれが八十八ヶ所札所であったことはまったくの偶然だった。

「金蔵院本堂」……慶長5年(1600年)頃に頼栄上人によって創建されたと伝えられ、古い記録としては享保年間(1716年~1736年)に俊海法師が本堂を立て直したことが残っていると……失礼ながら、見かけ以上になかなか歴史のあるお寺だった。
 本堂に安置されている本尊の大日如来像と脇侍「木造不動明王および両童子立像」は区指定有形文化財不動明王像の頭部内から発見された11枚の文書によると、像の作者は不明ながら、応仁2年(1468年)に大和国山辺群・広瀬群のあたりで造立されたことと、目的が明らかになったと、目黒区教委の説明看板にあった。どうせなら「明らかになった目的」も教えてくださいませ。

本堂前に悲しいお顔の地蔵尊……本堂に川崎大師のポスターが掲示されているのは、第一番札所だからだろうか。

「境内」……明治4年1871年)、境内の建物を使用して学校が創立された。後の区立八雲小学校(八雲小学校としての創立は明治7年)で、区内で一番古い小学校誕生の地とだった。

『遍照金剛には「太陽のような明るい光を照らす慈悲と、人を幸せにする仏さまのような砕けることのない知慧の持ち主」という意味があり、大日如来の別名でもあります。(滝本仏光堂より)』……後ろ姿に手を合わせて失礼した。

お隣の金蔵院にお寄りしたのに、こちら(八雲氷川神社)にご挨拶をしないのは失礼だと拝殿に手を合わせてから、前回撮り忘れた手水舎だけパチリ……

安政6年(1859年)の奉納らしいが、水盤の足元を撮り損じていた私……

「がまんさま」なんて呼ばれて親しまれたようだが、水盤を支える力持ち達……数日後(1月14日)に訪問した矢口今泉神社手水舎にも同じ姿があったが、当時の流行りだったのかもしれない。毎日お疲れさま。

八雲通り商店街の「東光寺参道入り口」と……

「常圓寺参道入り口」前で合掌だけして帰宅した。

今日の「My First JUGEM」は……『5月(皐月)の空蝉……』