足跡(寺社)87・東光寺……2019.6.2

少し歩こうと、とりあえず「中根西三叉路馬頭観音庚申塔」に向かい、足の向くままウロウロした2019年6月2日のこと。

氷川神社の三之鳥居から東に向かったので、西に隣接する旧別当寺「金蔵院」を見逃した理由が当時の日記を見て分かった。どうやら境内の「みどりの散歩道」案内板に「東光寺」とあったので、こんな道を歩いたらしい。

「東光寺」山門(目黒区八雲1-9-11)

山門前に地蔵尊がある。円柱形の寺号碑には「曹洞宗 東光寺」とあるが、創建当初は「東岡寺」と称す臨済宗寺院だった。現在と同じ「東光寺」と改められたのは天正19年(1591年)頃で、さらに江戸時代の初めに曹洞宗へと変わった。

境内に雄の大イチョウ……同寺のすぐ近くにある「常圓寺」には雌の大イチョウがあり「夫婦イチョウ」と呼ばれている。

【附けたり】(2022年10月21日の写真)
至近距離からでは大イチョウの全景は収まらないので、門前から……紅葉を期待するにはまだ早過ぎた。

「本堂」……貞治4年(1365年)、当時の世田谷城主吉良治家(きらはるいえ)が、10歳で早世した子息の祖朝(ちかもと)の菩提を弔うために建てた同寺は、泰陽山霊徳院と号す。江戸期には30石の朱印寺だったとのこと。

本堂前には風神と雷神……古代インドの自然をつかさどる神だが、仏教に取り込まれてからは千手観音を守る役割を担っているそうだ。

道元禅師ご尊像……
『まことに一事をこととせざれば 一智に達することなし (弁道話)』
「何事も中途半端で終わってしまっては信念などうまれるはずがない」……実に耳の痛いお言葉。

「慈母観世音」の眼差しは慈しみに満ちていた。

「鬼の石仏」……顔かたちは鬼のままだが、僧衣をまとって偽善者の姿を表す「鬼の寒念仏」というものか。キックバックを「還付金」中抜きを「留保」と言い換える姑息な偽善者たちを、なんとかしてくれ。

おそうじ小僧さん……大真面目か?遊び心か?なんとも言えないが、本物の竹箒を携えている。

本堂左側……奥に「白山堂(左)」と「観音堂(右)」が並ぶ。実は、観音堂から本堂に続く渡り廊下があり、その下がくぐれるようになっていて本堂裏の「心字池」に導いてくれるのだが当日は見逃した私。

命あるものは死後に、地獄・畜生・餓鬼・修羅・人・天の6つの世界(六道)に生まれ変わる(輪廻転生)と言われるが、それぞれの世界で守ってくれる六地蔵菩薩。
左の小屋には……

数珠を手にした「馬頭観世音菩薩」……三面六臂で馬の頭を冠のように乗せている。六道中畜生道に配される六観音の一体。

曹洞宗のご本尊・釈迦牟尼仏だろう……南無釈迦牟尼仏

本堂前に引き返すときに出会った「石地蔵」……

テントウムシが頭を歩いていたので、いつもの悪い癖でパチリ。

境内の東側にも石像がたくさんおられた。

仲良し道祖神……後方にはとぼけた狸

お願いします……

ちび七福神と……

大人の七福神……左から恵比寿・大黒天・弁財天・福禄寿・布袋尊・寿老人、そして毘沙門天七福神めぐりが一か所で完了。

幸福を呼ぶ東光寺の七福神……比較的新しいものだろうが、レトロモダン。

なぜか狛犬もいた。神仏習合を伝承しているのか。

巨大な石塔の傍らは……

如来さまだろう……立てた左手の人差し指を右手で包み込んだ印相を「智拳印(ちけんいん)」という。大日如来智慧を表すとされている。ちなみに、座り方は瞑想のポーズ「結跏趺坐(けっかふざ)」の状態だが、右足が上になっているから「吉祥坐(きっしょうざ)」という。左足が上の場合は「降魔坐(ごうまざ)」という。禅宗寺院にはふさわしいかもしれない。

鐘楼……

境内から山門……昨日載せた氷川神社や、今日の東光寺など寺社が集中するこのあたりが江戸時代には衾村(ふすまむら)の中心地だったらしい。昭和10年代までは呑川の流域に田畑や原野がのどかに広がる純農村地域であり、都市化は遅かったとされる。昭和初期までは、夏には蛍が飛び交ったという呑川だが、荒れると洪水で大きな被害を生んだらしく「全てを呑み込んでしまう様子」が呑川の名の由来らしい。

山門の先も参道らしい雰囲気だったから行ってみたら……

八雲通り共栄会通りに面した場所が東光寺参道口だった。
 蛇足ながら、当時の写真を選び直してリライトしているが、以外に手間がかかる。当時曖昧だったことなどを調べ直すのは面倒だが、勉強は積み重ねと思い頑張ってみることにしている。

今日の「My First JUGEM」は……『虚しく終わるだろう政倫審……』