足跡(寺社)117・等々力玉川神社……2020.1.9

2020年の初散歩をした1月9日のこと……ポエムでモーニングを食べて新聞を読み、一旦帰宅してから出かけるのが常となっていた。模型はすっかりご無沙汰していたから、天気の良い日は歩いていた頃だ。

薬師如来瑠璃光院参道を出ると左に「玉川神社」の鳥居がある。こちらが正規の参道口と思ったのだが……

境内に入り神楽殿脇から右手を見ると南に向いた大鳥居があり「あっちが表参道」と気付かされた。手水舎も見えるが……

私の脇にも西参道用の手水舎があった。ベンチの所に灰皿らしきがあることを、この写真を見て初めて気付いた間抜けな私だった。

手水舎の後ろに「祓戸社」………「祓(はら)へ給へ清め給へ」と唱え、祓戸の神様に罪や穢(けが)れを祓ってもらってから本社・末社をお詣りするとのこと。祓戸社は「はらえどしゃ」と読むのかしら?

「等々力玉川神社社殿」(世田谷区等々力3-27-7)……彫刻などは簡素だったが想像以上に立派な社殿だった。賽銭箱の前に「神楽鈴」っていうのか? 手に持って振る鈴が立てられていたが、 私は初めてのタイプだった。

「社殿扁額」……文亀(ぶんき)年間(1501年~1504年)に世田谷城主・吉良頼康熊野大社を勧請して創建されたと云う。よって、当初は「熊野社」と称され、「玉川神社」と改めたのは明治の時代。玉川村の鎮守という意味合いを込めてのことだろう。
 蛇足ながら、前に載せたが、瀬田にも玉川神社があるため、こちらも等々力玉川神社と表記した。おっと、東玉川にもあったっけ。「渋谷氷川神社」の旧社殿が移築された東玉川神社が……玉川村は広いということだ。

社殿は昭和15年(1940年)に再建されたものらしいが、重厚感が伝わってくる。数百年後には深みある姿になるだろう。

社殿左側には、いくつもの境内社や石碑が並んでいた。後方は道路だが、木々に囲まれて静かな空間だった。

「高屋直弘翁 留魂碑」……大正13年1924年)から昭和29年(1954年)までの約30 年をかけて、現在の東京都世田谷区の面積の約1/4 を占める玉川村全域を対象として行われた「玉川全円耕地整理事業」で技術担当者だったのが高屋直弘氏らしい。

天満宮八幡神社の合殿らしい……三社祭れるのになぜ二社なのか?

奥にも境内社が並んでいた。

「大國社」……

朱色の鳥居をくぐると石造りの社があり……

その後方には立派な木造の「稲荷社」社殿があった……

稲荷社の右には「三峯社」……

正面の石碑は不明だが、右端の小さな祠は「神明社」らしい……

社殿右側・社務所前にあった。岩を積み上げただけか?と思ったら……

「石獅子(いわしし)」……『獅子は子を生むと、その子を深い谷底に投げ落とし、生き残ったものだけを育てるという俗説から、自分の子に苦しい試練を与えその才能をためし、立派な人間に育てることのたとえとして、遠き昔よりこの様な子育ての信仰があった』と書かれていたが、言葉を具現化したのだろう。

落とされた子どもは、見上げているけど登れるか? 進むべき方向だけ分かっていればそれで良い。

社殿前境内はスッキリ広々……三が日は大勢の方で賑わうことだろう。

「犬に水を飲ませないでください」と張り紙……散歩させる人もいるのだろう。

「神楽殿」……境内注意事項を書いた看板が3つも置かれていた。景観を損なうので外したのか? マナーが良くなったのか? どうぞ後者でありますように……

鳥居の奥に「忠霊塔」があった。戦没者慰霊塔なのだろう。手だけ合わせてきた。

中町天祖神社の本務社ということだけあって、規模が違った。

とても大きな社号碑だった。

南参道口は目黒通りに面している。大通りはなるべく避けて歩くので、ここを徒歩で通過したことはなかった。車に乗っていた頃は何度も通過したが、神社の存在には気付いていなかった。横目で見ていたはずだが、きっと興味がなかったからだろう。鉄塔に気付かないのと同じかもしれない。

今日の「My First JUGEM」は……『シャクナゲに虫……』