思い立ったが吉日とばかりに大田区矢口から下丸子あたりの寺社を訪ねた2020年1月14日のこと……
延命寺と今泉北向き庚申塔から多摩堤通りを下丸子方面に歩くと五差路の交差点……後日の同地区再訪時に分かるのだが、この交差点を右にまっすぐ進めば新田神社前だった。
五差路を左折して前方を見ると三差路に見えるのだが、実は又しても五差路。とにかく変な道ばかり……後日直進したが、この日の目的地は私の左……
両脇を民家に挟まれている神社の参道は月極駐車場になっていた。時世の流れを感じるが、多摩川七福神の赤い幟がなかったら見過ごしたかもしれない。
社号碑には「是ヨリ本社江 二丁」・脇の石柱には享和二年(1802年)とある。古き時代に本社とされたのは、左方向まっすぐ200mほど先の新田神社ということだ。
月極駐車場の奥に「十寄神社」(大田区矢口2-17-28)……本社は新田神社だとあったが、以前お邪魔した「徳持神社(大田区池上3丁目)」が現在は兼務されている。同社は東急多摩川線と池上線とを越えた場所だから近くはないし大変だろう。
『南北朝争乱期の正平12年(1358年)10月、矢口の渡しで謀殺された南朝方の武将、新田義興公(新田義貞公の次男)と、その死を共にした氏族および近習の将兵十柱の御霊(みたま)をお祀りしています。初めに十寄神社を参拝してから新田神社へお詣りすると願い事がかなうと云われ、江戸期には大いに栄えました。現在のご社殿は昭和55年(1980年)10月に竣工されたものです。』(徳持神社HPより)
参道の狛犬は昭和初期だが、社殿前両脇に置かれている小さい狛犬は享保3年(1803年)に奉納されたようだ。
神額の十寄神社は「とよせじんじゃ」と読む。
德持神社のHPには、次のご祭神が示されていた。
新田義興命(にったよしおきのみこと)
世良田右馬助義周命(せらたうまのすけよしちかのみこと)
井伊弾正左衛門直秀命(いいだんじょうざえもんなおひでのみこと)
大嶋周防守義遠命(おおしますおうのかみよしとおのみこと)
由良兵庫助命(ゆらひょうごのすけのみこと)
由良新左衛門命(ゆらしんざえもんのみこと)
新藤孫六左衛門命(しんどうまごろくざえもんのみこと)
堺壱岐権守命(さかいいきごんのかみのみこと)
土肥三郎左衛門命(どひさぶろうざえもんのみこと)
南瀬口六郎命(なせぐちろくろうのみこと)
市河五郎命(いちかわごろうのみこと)
義興に従って討ち死にされた側近たち10人の名がある。古くは「十騎明神」と称されたのが、いつの頃からか「十寄」となったらしい。
多摩川七福神「毘沙門天」もおいでだった。七福神めぐりなど想定外だったが、この日の散歩で、新田神社「恵比寿」・氷川神社「大黒天」・延命寺「寿老人」とこちらの「毘沙門天」を訪問出来た。残る三福神も11日後に追っかけ訪問した暇な私だった。
社殿裏には雷にでも裂かれたようにパックリと割れた巨木があった。
新田義興を謀殺した江戸遠江守は足利基氏のもとへ馳せ参じる途中、義興の怨霊が現れて落雷により落馬し、その数日後に狂死したと伝えられる。近づけなかったが、社殿裏は義興の家来衆の墳墓「十騎塚」が存在した場所のようだ。怨霊と雷との因果関係は分からないが、春になったら緑の葉を茂らせるだろうと見上げた。
社殿前から鳥居・参道……
鳥居をくぐってすぐ左にある小社の扁額は「十騎神社」であり、旧社名を残している。御家来衆を祀っているのだろう。手水石にも歴史を感じた。
多摩堤通りに戻って、右へカーブしながら北西へ……カーブする道は、方向感覚だけで歩く私には大敵。
美容院の入り口に……こんな道草をしているから歩みがのろい。
喫茶店 柊(ひいらぎ)……寄りたかったが、ドアの前に立ったらにぎやかな会話が聞こえてきたので断念した。よそ者が邪魔したらいけないので……
キャンディ・キャンディ……女の子の漫画だということだけは知っていたが、熱心なファンがいるようだ。
「奥様の昼カラオケ」は閉まっていた。もちろん住宅も建ち並ぶが、大小の工場も目立つ一帯だから昼カラ歌ってもいられないのだろう。