足跡(寺社)109・上野毛稲荷古墳から野毛六所神社・多摩川水神社……2019.12.4

11月29日に古墳を辿りながら五島美術館まで歩いたのだが、独り反省会で見落としを発見したので、同じようなエリアを繰り返し歩くのは悔しかったが再度でかけた2019年12月4日のこと……暇なことは今も変わらないが、とにかく元気だった。

世田谷区上野毛2丁目の住宅街を歩くと……

柱には「上野毛稲荷塚古墳」とあるが見落としそうだ。

入り口の足元には「上野毛二丁目緑地」と書かれた縁石が斜めに置かれていたが、残念ながら立ち入り禁止……

上野毛稲荷塚古墳……『この古墳は多摩川下流域左岸の武蔵野台地上に分布する野毛古墳群を構成する古墳の一つで、その西端部に位置し、標高33mほどの舌状台地の上部に立地している。(世田谷区教委)』……標高33mは、五島美術館の高低差と一致する。狐塚古墳、御岳山古墳、大塚古墳などが野毛古墳群のようだ。
前方後円墳で、規模は全長20数m、後円部の高さ約3m……野毛大塚古墳に先行する初期の前方後円墳である可能性が高く、野毛古墳群中で最初に築造された首長墳と考えられる。築造された時期は古墳時代前期、四世紀後半と推定される。』
とにかく古いことだけは理解した。

丸子川に向かって明神坂を下る。
後で触れる「六所神社」の前身「六所明神」はこの辺りに鎮座していたと。

丸美屋の変則五差路を川沿いに歩き、目前の橋を左に渡るのだが、奥の小さく見える赤い紅葉の「善養蜜寺」へご挨拶して戻ってきた。(同寺の写真は今日はなし)
蛇足ながら、この辺りの地は、国分寺崖線散歩道「おもいはせの路」となっている。

宮下橋を渡り、なだらかに見える坂を上ると……

六所神社」……見方によっては城跡のような石垣だ。
2018年9月にほぼ隣接する善養密寺を訪問したのだが、その時は見落としたのでまた歩いた諦めの悪い私。(世田谷区野毛2-14-2)

石段を上って大鳥居……

高台の広々とした境内に鎮座する神社……正面の六所神社社殿に向かって太めの敷石。途中から左に細い敷石は水神社に導いてくれる。

鳥居をくぐって左隅に「造営記念碑」……御祭神が刻まれていたので撮っておいたが、五千万円を費やし、昭和44年(1969年)秋に造営が完成されたとも記されていた。

スタイルの良い手水舎……

「神楽殿」……手水舎やこれらも同時期に造営された。50年経っていても、まったく衰えを感じない。

楽殿の右に「多摩川水神社」……

社殿手前に水神橋が架かっている。手水鉢であろう右手前の水神龍には、水がはられていた。

「砂利船の詩」……なんとなく心に沁みたので撮っておいた。

水神橋の脇の鯉と鯰(なまず)が川を模していた。

「水神社社殿」……多摩川の恵みに感謝すると共に、水害や砂利船などの安全を願う水神社。狛犬は比較的新しい。

水神社扁額……

水神社の右隣の境内で一番古そうな鳥居は「天神様」らしい。社殿の造りも古く、(写真は載せないが)龍の彫刻なども歴史を感じた。明治に入り神仏分離がなされ、近隣の鎮守であった5社が合祀されたが、そのうちの1社が「北野神社」であることから、その際の古い社殿が残されていると推察する。

六所神社社殿」……定かではないが、大雨が降るたびに多摩川の氾濫に苦しめられていたある時、溢れた水に乗ってお宮が流されてきた。村人が引き上げて高台に安置したのが元和年間(1615~1623年)のことらしい。流れ着いたのが府中六所神社のお宮だったことから「六所明神」とし、鎮守として祀ったのが始まりのようだ。
 先にも触れたが、元の場所は「明神坂」のあたりで、明治31年(1898年)に天祖神社、山際神社、日枝神社八幡神社、北野神社を合祀して当地に遷座し、六所明神から六所神社と改称された。
 歩いた時に、世田谷区が建てたであろう「明神坂」の石柱を目にし「神社なんてないのに、なんでやねん」と思っていたが、リライトして今日知るに至った。

失礼してパチリ……御祭神は、伊弉諾命・伊弉冉命・天照皇大神・誉田和気神・大山都見命・菅原道真

社殿扁額……

社殿前からほぼ南に向かう参道……鳥居の先、下方に善養蜜寺の墓所がある。そう言えば、紅葉してたのね。

拝殿から本殿……裏側にも出られたので、こちらから失礼した。

六所神社の裏からぐるっとまわってくると。右側は善養蜜寺の墓所で、角に『都天然記念物 善養寺のカヤ』の石碑が建っている。本堂前にある高さ18m、幹周囲6mの大榧だが、参道口や山門付近ではなく、なぜここなのか少々気になった私であった。

今日の「My First JUGEM」は……『愛用のスプーン……』