足跡(寺社)103・桐ヶ谷氷川神社と忍田稲荷……2019.11.4

急に思い立ち、昼食後に朝日地蔵尊から桐ヶ谷あたりを歩いた2019年11月4日のこと……

すでに15時半だったが、ここまできたのだからと安楽寺山門前のこんな道をかむろ坂方向に進むと……

鳥居発見……

「桐ヶ谷氷川神社」……正式名称は『氷川神社』なのだが、他所と区別するためにあえてこうしておく。さすがに近く、かつての別当寺「安楽寺」の隣だ。(品川区西五反田5-6-3)
 鳥居もそこそこ年代を感じるが、社号碑は昭和3年(1928年)。「氷川」ではなく、二水「冫」を用いて「冰川」と彫られている。旧字体なのかしら。

真っ直ぐな参道を歩く。左側は「西五反田公園」なのだが、かつては氷川神社の敷地だったかもしれない。

参道を進むと、石段の手前に池があった。氷川の懸泉とも呼ばれた湧水による「氷川の滝」があり、昔は飲み水として利用され、夏ともなれば各地から人々が涼を求めて集まってきたという。水量は激減したようだが、池に水があるということは、写真左の崖からポトポト染み出ているのかもしれない。
 右の大きな石は「鉄砲石」と呼ばれ、幕末明治維新の志士等が品川宿御殿山の料亭観桜館の庭内で鉄砲の標的として使われた石だと言う。砕かれているのは弾痕ということか。

石段を上ると……

中ほどに安政6年(1856年)奉納の狛犬がお待ちの踊り場……

更に上ると……

手水舎……参拝者の動線にかなっていてありがたい。「飲めません」とあるが、本当に湧水なのかしら。

スマホの広角は役立つと、大いに実感した。古いコンパクトデジカメでは、こうはいかない。

楽殿は新しそうだが、狭くないかしら……

唐破風(からはふ)って言うのか? 昭和13年(1938年)に建設された美しい曲線をもつ銅葺き屋根の社殿が美しい。
 創建年代は不詳だが、江戸時代初期の元禄年間(1688~1704年)にはすでにあったらしい。主祭神は「素盞嗚尊(すさのおのみこと)」だが、「誉田別尊(ほんだわけのみこと)」「建御名方命(たけみなかたのみこと)」「面足命(おもだるのみこと)」「惶根命(かしこねのみこと)」が配祀(はいし)されている。

社殿から境内……車は右奥から来られるみたいだ。

社殿左脇に並ぶのは神輿蔵だろう。そうとうな数があった。ここより先は立ち入り禁止……

左・神楽殿から社殿と社務所……

社務所……灰皿発見!!! ありがたや~
「参衆殿」と書かれた扁額がかけられていた。

『是より 南海道』……煙草を吸っていたら隣にあった。南海道紀伊半島四国地方の行政区分および同所を通る幹線道路らしいが、なんでここにあるのか不思議。

喫煙コーナーから稲荷神社の幟が目に入った。一服しなければ素通りして帰るところだった。

赤い幟もきれいに整列……

「忍田稲荷大明神(しのだいなり)」
『由緒 忍田稲荷大明神保食神
 人皇第七五代崇徳天皇保延三年(一一二三)京都稲荷山より忍田稲荷大明神を芝白金台現袖ヶ崎神社に勧請されたと伝えられる(八五〇年前)
 明治四十一年九月桐ヶ谷村の八幡神社 諏訪神社 第六天神社の御祭神を氷川神社に合祀さるその折 袖ヶ崎神社の忍田稲荷大神を当神社の末社として勧請し今日に至る
 平成三年九月   宮司山口直比古 記』(説明書きのまま)
 ※ [保食神]は「うけもちのかみ」と読み、日本神話に登場する神とのこと。
 ※ [保延三年]は1137年みたいだけど?

氷川神社の立派な社殿右奥に隠れていた……

ということで、社務所前からも失礼できそうなので歩くと……

ちょうど忍田稲荷大明神の後方に「滑り台」……子供の遊び場があるのかと上ってみたが焼却炉があるだけだった。

滑り台の脇のお家の塀の上……右から、ワラ、木、レンガだから、三匹の子豚だろう。でもオオカミはいなかった。

裏口入社の多い私だが、この時は正門から入ってこちらに出てきた。氷川神社は三方向から入れるが、もよりの不動前駅からはこちらが便利。

今日の「My First JUGEM」は……『花が咲く……』