足跡(寺社)104・駒繋神社……2019.11.17

以前、隣の駒繋公園を通過しながら気づかずに通り過ぎてしまったので、訪問してみた2019年11月17日のこと……
 蛇足ながら日記帳をみたら、禁煙のシネマカフェで「回鍋肉」のランチを食べ、ドトールに寄ってオレンジジュースを頼んで一服したらしい。食後の一服は美味しいんだよな~

足腰のために、遠回りして蛇崩川緑道を歩くと……

朱色の橋が横たわる。昭和26年(1951年)に架けられた「神橋」は、蛇崩川が暗渠になっても川があったかつての風情を残している。暗渠ではない丸子川沿いの「善養密寺」にも赤い橋「大日橋」が架かっていたっけ……

僅かに太鼓橋のような形をした神橋は「駒繋橋」と書かれていた。参道入り口にはよく似合う。(世田谷区下馬4-27-26)

鳥居をくぐると二股……石段とスロープ……車椅子やベビーカーも押して上れて優しい。いわゆる男坂・女坂というところだが、このスロープも結構歩きにくい。(幾度か訪問した際、一度だけ試してみた)

初回訪問のこの日はもちろん石段を使ったが、上ると手水舎……お詣りの動線上にあるから石段が正解だった。

社殿手前の右側に石碑や稲荷がある。左は庚申供養塔で、中央奥は「表参道敷石」と読めた。改修工事の記念碑だろう。

右は昭和32年(1957年)に行われた「鎮座九百年式年大祭記念」の碑。
左の小さい石板には「大国主命」とある。当社のご祭神とのことだから、かつての社殿(現在の招魂社)か鳥居の扁額だったのかもしれない。
 立て看板に『陸稲(おかぼ)の藤蔵糯(とうぞうもち)』とあった。米は水田でつくるが、田の少ない地方では陸稲として畑で栽培し、収量を少しでも多くしようと熱心に品種改良に取り組んだと。藤蔵糯は明治30年(1897年)代の初め、荏原郡駒沢村下馬引沢(現在の世田谷区下馬)の清水藤蔵氏が、尾張糯を改良して作った。餅には不向きで赤飯に用いられていた陸稲だが、藤蔵糯は水稲に負けないおいしいお餅がつくれたそうだ。めでたし、めでたし……

右の女坂を上ってきたあたりに「稲荷神社」がある。

大きな石碑は「下馬土地区割整理記念碑」……駒繋神社と同じ下馬4丁目にある現在東京学芸大学附属高校になっている場所は、昭和10年(1935年)に青山師範学校(現東京学芸大学)が移転してきた。ということは、区画整理は昭和初期のことだろう。

「駒繋神社社殿」……出雲大社の御分霊を勧請し、大国主命を守護神としてお祀りしている。今から約950年程昔、御冷泉天皇の天喜四年(西暦1056年)四月源義家が父頼義と共に朝廷の命をうけ欧州の安倍氏征伐(前九年の役)に向かう途中、この地を通過する際に「子の神(当社)」に武運を祈ったと
「子の神」から正式に「駒繋神社」と称せられるようになったのは明治以降だそうだ。当然ながら現社殿の扁額は駒繋神社となっている。

現社殿は昭和38年(1963年)竣工らしいが、龍も生き生きしている。

鉄筋コンクリートの社殿だが、木鼻の木彫がぬくもりを与えている。

社殿左のプレハブは仮の社務所だった。

右から、社殿、仮の社務所、三社殿、神輿蔵、招魂社、手水舎と一列に並んでいる。

拝殿から後方に続く本殿の横に……

「三社殿」……天保15年(1844年)五穀豊穣、盗難、火災除、家内安全を目的とした講により祀られたそうだ。

左から、三峯神社榛名神社御嶽神社と並んでいる。

昭和39年(1964年)に旧拝殿を移築し「招魂社」として創建された。狛犬に隠れているが、社殿左には「戦没紀念碑」があり、国のために御身を捧げられた250有柱の英霊が祀られているとのこと。

招魂社の後ろに……

大脇月甫歌碑……
『月かげの濃くさしくれば 散りのこる
 一葉もちらむ つめたき夜なり』

明治25年(1892年)竣工の「神楽殿」……時代劇をはじめテレビ、映画の撮影にロケ地として利用されているそうだ。
楽殿右側の道路の前方350mほどに学芸大学附属高校がある。

裏口から失礼したが鳥居はなかった。

【附けたり】(2022年2月27日の写真)
境内に梅の木はなかったと記憶していたが「鎌倉殿の13人」を観ていた時期だから寄ってみたら、社務所はすっかり新しくなっていた。神楽殿との間に、2019年の訪問時は気付かなかった背の高い樹木と朱色が目に入った。

左の樹は、世田谷区の名木百選に名を連ねる「モッコク(木斛)」……初めて耳にしたが、江戸時代には「江戸五木」として親しまれ「庭木の王様」と呼ばれるそうだ。初夏には花を咲かせるようだから見に行こうと思っている。
 ※「江戸五木」=モッコク、アカマツ、イトヒバ、カヤ、イヌマキ
モッコク後方に鳥居と稲荷神社がある。駒繋神社にはお稲荷様が2社あることになる。
でもって、左の背に低い石碑は……

「駒繋之松」の碑……文治五年(1189年) 源頼朝が奥州の藤原泰衡征伐のためこの地に至った時、愛馬より下りて駒(馬)をつないだと伝えられる松がここにあったのだろう。同碑には「三代目」と書かれている。残念ながら、現在 四代目を育てているので境内に松はない。そのうちに「四代目」の松に会えるかもしれない。

今日の「My First JUGEM」は……『なるほど……』