足跡(寺社)41・春日稲荷・代六天根ヶ原神社……2019.01.10

大田区山王の模型店訪問が目的で出かけた2019年1月10日のこと……

歩き疲れたし、そろそろ家に帰ろうと環7を歩くと「春日神社東」の看板が掲げられた交差点があり、旧池上通りが横切っていた。ひょっとしたらと脇を見たら遠くの玉垣を背にして見えた。
 電信柱の左の角柱の2本には「明神橋」と彫られていた。川か、はたまた用水か、いずれにしてもかつて架かっていた橋の親柱かもしれない。

「いにしえの東海道」……『この道は時代により、奥州街道・相州鎌倉街道・平間街道・池上往環などと呼ばれてきた古道です』と記されている。東海道が海岸沿いに整備される以前はここを歩いていたのかもしれない。いずれにしても「古(いにしえ)」のことだ。

玉垣を辿っていくと「春日神社」の立派な鳥居……私の立っている鳥居前の道を右に進むと池上本門寺門前にたどり着く。現在は南側(写真方向)に並行して新しい池上通りが走っているが、古くはこちらがメインストリートだったということだ。(大田区中央1-14-1)

鳥居をくぐり社殿に向かって右側に「手水舎」……

迫力のある龍だが、水は出なかった。

参道を挟んで手水舎と向き合うように「稲荷社」も鎮座していた。

よく目にするが、狐にかごを被せる正確な理由は未だ分からない私……逃げないようにではないだろうから、いたずらによる破損防止だろうと思っている。

「神楽殿」は旧社殿を建て替えた際の木材が使われているとのこと。むこうは授与所から社務所のようだ。授与所には人の姿があったが、「日枝神社」「八景天祖神社」同様に品川区南大井の「天祖諏訪神社」が兼務されているようだ。

別当寺は「山王熊野神社(荒藺ヶ崎熊野神社)」と同じ「善慶寺」であり、共に現在の山王・大森北・大森西・南馬込となった旧新井宿村の鎮守として崇敬を集めてきたことだろう。

創建年代は不詳ながら、鎌倉時代に奈良の春日大社からこの地に神様をお迎えして創建されたそうなので、祭神は春日大社と同じ「天児屋根神(あめのこやねのかみ)」「建御賀豆智神(たけみかづちのかみ)」「伊波比主神(いわいぬしのかみ)」の三柱。
 なお、現在の本殿は昭和13年(1938年)に建設されたと云うから、戦火は逃れたようだ。鎌倉時代以来約700年近く、この地域と住む氏子さんを守り続けてきた。これからもよろしくお願いします。

春日神社を後にして、本気で帰ろうと思ったのだが、環七を渡ったらまたお会いしてしまった。(大田区山王3-15-23)
 社号碑の「根ヶ原神社」の頭に、小さく「代六天」とある。(昨日載せた)近隣の「根岸神社」の冠は「大六天」だったが、いずれも江戸庶民から絶大な信仰を勝ち取っていたらしいが、神仏分離令によって逆境がやってきたと。天照大御神を頂点とした国家神道を国民に浸透させようとしたらしい明治政府にとって、天照大御神の両親にあたる「神世七代(かみのよななよ)」の伊邪那岐伊邪那美を差し置いて、その前第6代の神様「面足尊 (おもだるのみこと)」「惶根尊 (かしこねのみこと)」が生き残る危機があったようだ。第六天、大六天、代六天と、共に「天」を用いているが、「第六代」に変えてしまうなどで乗り切ったとされる記事を見たことがある。大六天が邪神・邪教だったかは深く知らないが、現在も生き延びている姿を拝見した当日だった。

小さなちいさな神社……

社殿は改修されているだろうが、狛犬などは戦禍を逃れたようだ。
ということで帰路についたが、またしても鳥居に巡り会うこととなった……

今日の「My First JUGEM」は……『目黒にバッタを見た……』