足跡(寺社)101・霊源寺・行元寺……2019.10.30

連れ合いが義母に付き添って箱根に出かけていたから、おとなしく留守番をしていればいいのに冨士見地蔵からブラブラ歩いた2019年10月30日……まだまだ足は達者だった。

路地の奥にある長應寺・桐ヶ谷寺・専修寺を拝見して表通りに出てきて左を向いたら……

桐ヶ谷通りにある寺院……

浄土宗寺院「霊源寺」(品川区荏原1-1-2)……私の背後は桐ヶ谷斎場。斎場に一番近いお寺さん。
 訪問当時には調べきれなかったのだが、今日見つけた同寺のHPには『この地域一帯は、古来、戦場ヶ原と称せられ、戦国時代はしばしば戦場となり、戦死や疫病による死者の遺体が散乱していたと伝えられています。
 江戸時代初期、浄土宗の僧、林譽霊源和尚はこの地帯を行脚され、遺体を集めて浄梵供養し、堂宇を建立され、その号を「諸宗山霊源寺」としました。
 その後、本堂裏山において火葬が行われ、「荼毘寺」「火葬寺」「無縁寺」として伝承されてきましたが、大正の初期、その職務を東京博善株式会社に譲渡し、その地は現在の桐ヶ谷斎場となっています。』とあった。なるほど、桐ヶ谷斎場発祥の寺院だった。

大昔、同寺で執り行われた親戚の葬儀に参列した際、霊柩車は使わずに大人たちが棺を持って斎場まで運んだことを覚えているが、記憶に残る本堂の風情が一変していた。住職が代わられた昭和58年(1983年)に新築されたようだ。

桐ヶ谷通りをかむろ坂に向かって歩く。少し後方に「西霧ヶ谷公園」があるのだが、なぜか「桐」ではなく「霧」……今日は写真は載せない。

まだ昼顔があるなんてと遊んでみたのだが、東急目黒線(旧 目蒲線)の踏切があったところ。現在は地下に潜らせてあるから待つストレスがなくてありがたい。

かむろ坂通りが横切る「かむろ坂上交差点」……「坂上」と言うが、左にもう少し上っていく。
 左のラーメン店「きりきり舞」は「葉月」の店主から独立を許された唯一の店だと当時学習した。葉月は知らないが、醤油系みたいだから食べてみたいと思いながら5年近く経ってしまった。まだ営業されているだろうか。

近くにありそうな1寺を求めて少しだけかむろ坂を下ってウロウロ……

見つからなかったので一帯の裏道をくまなく歩いた。ネコに尋ねたが答えてはくれなかったし、陽も陰り始めていたから諦めた。

どうしても諦めきれなかったので、翌31日に再挑戦……かむろ坂上をちょいと下った所で、前日もこの景色は見ていたのだが、パーキングだとばかり思いこんだのが間違えだった。

奥まで行ってみれば分かったのに……前日は何を考えていたのか。

路地入り口の石塔にも気付かなかったらしい。

古い一軒家としか見えなかったが……参道も、右手の駐車場や住宅の建設に伴ってこの姿になったのではと推察する。

表札はなかったが、どうやらこちらが天台宗寺院「行元寺」のようだ。(品川区西五反田4-9-10)
 創建年代は不詳だが『行元寺は元牛込肴町にあり行願寺とも称されていました。本尊である千手観音は恵心僧都の作と伝えられ、甞(かつ)て頼朝公が石橋山で敗戦して、関東下向の砌(みぎり)行元寺に来詣し本尊に祈願して曰く、もし天下に覇たるを得ば荘田を寄附し永く法燈を輝かさんと。其の夜尊像を襟にし、天下を平定すと夢を見る。後に霊夢の如くなると、故に世俗これを襟掛の尊と称す、とあります。』と天台宗東京教区HPにあった。
 また『明治末に区画整理により、現住所に移転しました。戦火により本堂焼失以後、昭和30年コンクリートブロックの本堂を建て、本尊を安置してあります。行元寺は頼朝公祈願により、祈願寺として維持しております。』ともあった。牛頭山千手院行元寺の本尊は千手観音であろう。

「大震災横死者供養塔」……明治24年(1891年)に神田神保町(北神保街)で果物仲買商を始めた信徒総代の和井田氏が、守護神の黒滝明王の加護によって商売に成功したお礼として大正14年(1925年)に建立した地蔵尊らしい。関東大震災で亡くなった人々の霊を祀ったのであろうが、個人による建立は珍しい。

亀に乗っているようにうかがえるが「黒滝地蔵尊」と呼ぶらしい。残念ながら和井田氏の守護神・黒滝明王は、調べたが的確なものにあたらなかった。

石古坂を少し上り……

林試の森公園の落ち葉を踏みながら……

ベンチで一服……あのころは灰皿があって良かった。

羅漢寺川緑道を歩くと……

台風でベランダから飛ばされたであろう洗濯物を、心ある方がかけてくださったようだ。しかし、なんでこんな写真を撮っているのだろう。

今日の「My First JUGEM」は……『歩くと空き地……』