足跡(寺社)100・桐ヶ谷寺・専修寺……2019.10.30

留守番をしながらも、晩酌のつまみ買出しついでに少し歩いた2019年10月30日のこと……

左側・長應寺墓所の道を桐ヶ谷通り方向へ進むと、遠くに吊り看板が見える……

右側はいかにも寺院らしい「専修寺」だが、「桐ヶ谷寺」はどうなっているのか……

そっと、看板に記された矢印の方を覗いたら……

曹洞宗「門良山桐ヶ谷寺」(品川区小山1-4-8)……入りにくかったが、折角なので進んでみた。

『今からおよそ50年前、山号を門良山と命名して開かれた道元禅師を宗祖とする曹洞宗の寺院です。高輪の泉岳寺塔頭寺院であった門良院の墓地後に建立されました。かつてはイギリス領事官として使われたこともある由緒ある寺院でしたが、その後、廃寺となって、わずか4、5軒の檀家の墓所が現在の桐ヶ谷寺が建つ場所に残されているのみでした。
 その廃寺を、現在の黒田純夫住職の師父である梅庵白純大和尚が譲り受けて墓所を整理し、8畳一間の仏殿を建てて再興したのが始まりです。
 平成15年(2003年)にモダンな本堂に建て替えられ、翌年4月に落成式を挙行し、檀家数も今や3000軒に及びました。20年ほど前からは、禅の修行に外国人の僧侶が訪れるようになりました。次第にその数がふえたために、今では座禅会は英語でも行われています。』(荏原第一地域新聞「まちかど」平成20年(2008年)2月発行より・原文まま)
 当地へ移転し、現在の「門良山桐ヶ谷寺」と改称してスタートを切ったのは昭和30年(1955年)ごろと思われる。

コスモスがきれいだったのでちょっと遊んでみた。法話会には中村勘三郎氏、遠藤実氏、藤本義一氏らが招かれていたそうだが、みなさんお亡くなりになってしまった。南無釈迦牟尼仏……

入り口にかけられた扁額は「桐谷寺」……看板には「桐ヶ谷寺」と「ヶ」が入っていたが、こちらが正しいのだろう。

檀徒ではないので、脇にあった素敵な額を撮り、扁額の下で合掌一礼して失礼した。

鉄筋コンクリート造りの桐ヶ谷寺入り口正面に……(品川区荏原1-1-3)

木の匂いがしてきそうなぐらい新しそうな山門……薬医門と言うのだろうが、丸い照明が似合っていた。

浄土宗寺院「専修寺」……

「本堂」……永禄2年(1559年)に青山にて創建されたが、天正19年(1591年)に家康公によって、家臣の菩提寺として赤坂堀端に移転することになる。
 事情は分からぬが(武家屋敷の都合かもしれない)、寛永2年(1625年)には赤坂一ツ木に代地を賜り移転する。赤坂・専修寺として永年法灯を護寺するも、明治40年(1907年)近衛歩兵第3連隊拡張の軍令により敷地を割くことを余儀なくされたため、堂宇と墓碑を西五反田へ移築する。その後いつのことか不明だが、同じ桐ヶ谷の当地に移ったようだ。
 推測だが、宗教法人専修寺を設置者として昭和26年(1951年)に開園した「専修幼稚園」は、昭和39年(19640年)に首都高速道路建設のため新園舎・プールを完成させて現在地(西五反田6-11-5)に移転したとあった。おそらく当初は専修寺に併設されていただろうと考えると、同寺が荏原に越されたのも同時期と考えられる。武士、陸軍、首都高と時代に翻弄されてきたようだが、どうかこの地での法灯が続きますように。南無阿弥陀仏……

本堂扁額……山号は「一行山」
「木造阿弥陀三尊像(品川区指定文化財)」が安置されているようだ。定印を結んで結跏趺坐する中尊「阿弥陀如来坐像(像高69.7㎝)」の左右に「観音菩薩(像高83.5㎝)」「勢至菩薩(像高88.7㎝)」の脇侍がお立ちとのこと。いずれも平安時代後期から鎌倉時代初期の作らしいが、阿弥陀如来像は、室町時代後期の永正5年(1508年)には上総国佐是群池和田郷(現在の千葉県市原市池和田)の正福寺の像であったと。

客殿・庫裏も木のぬくもりを感じた。

庫裏の右奥に小庭園……鯉も泳いでいた。

圓光大師霊場の石塔……天台宗を学んだのちに浄土宗を開いた法然のこと……安永9年(1780年)の銘があった。「十一番」とは、法然上人の霊跡を巡る「東都二十五ヶ所霊場」の十一番札所を意味する。祐天寺は八番だった。

ありがたかった……石塔の後方に喫煙所

墓地入り口手前に……

全て立像だが、阿弥陀三尊であろう。
 墓地には立ち入らないのだが、今日リライトにあたって調べたら、墓所の奥に庚申塔があるらしい。

コンパクトだが、とても気持ちの良い境内だった。

山門を出て次へ進むと山門がもう一つ……駐車場用の山門だったが、立派なこしらえに感服した。

今日の「My First JUGEM」は……『栗蒸し羊羹……』