足跡(寺社)91・石仏の数に圧倒された「安養院」……2019.6.14

上目黒天祖神社-目黒歴史資料館-大鳥神社庚申塔成就院蛸薬師)など未訪問だった場所を歩いた2019年6月14日のこと……

成就院蛸薬師)山門から、目黒不動商店街を「八つ目や にしむら」の方に歩くと左手に天台宗寺院「安養院」(正式名称:臥龍山安養院能仁寺)の参道入り口がある。参道を上がるともう一つ門があるので、こちらは「総門」になるのだろう。
 左右の大きな狛犬風は宝獅と呼ばれ、中国の屋敷の守護神らしい。銀座亜寿多食品(おそらく銀座アスターだろう)が中国から持ってきて奉納したそうだ。

宝獅の後方には左右に墓碑が置かれていた。(左の写真は省略)

山門に向かう細い参道の両側にはたくさんの石像・石仏が佇んでいる。ちなみにここは目黒区下目黒3丁目……

このころから気に入っている半跏思惟のポーズ……お休みポーズではない。

草葉の陰に隠れている。

頬杖ばかり集めたわけではないようで……

山門手前に地蔵尊がおられた……

こちらは子育地蔵……書かれていると助かる。

二人地蔵尊……延命地蔵尊と身代わり地蔵尊かもしれない。(私の勝手な決めつけ)

地蔵菩薩であろうか……

無縁菩薩と彫られた上にお坐りの三面六臂青面金剛ではなさそうだ。横に「西国秩父坂東供養」「寛政元年(1789年)」が読める。江戸時代前から西国(三十三ヵ所)、坂東(三十三ヵ所)、秩父(三十四ヵ所)の百観音を巡拝する観音信仰があったようのなで、百観音巡拝を記念しての供養塔だろう。

山門前に……「安養院地蔵群」と呼ぶように、本当にたくさんの石仏があった。

山門前到着……私の立っている場所は目黒区……山門をくぐると品川区(西五反田4-12-1)だ。正面が本堂なのだが、近代的で近寄りがたく、山門をくぐる所で手を合わせて失礼した。

山門扁額……安養院と知っているからなんとか読める。
 天台宗東京教区のHPには『中国の帰化僧獨湛が当山に逗留し、宝永2年(1705年)現在の山門に掲げられた「安養院」の扁額を製作しました。』とあるが、あまりにも綺麗な扁額だ。

山門をくぐって境内側にも……

反対側には中国風もおられる……

山門をくぐってすぐ右に「観音堂」……室町時代(1336〜1568年)の一宇らしく、栃木県の定願寺より寄進されたと。

観音堂の脇に宝篋印塔(ほうきょういんとう)があって、その右に……

「石造念仏供養塔」……品川区指定有形文化財
『塔は、高さが3.6mにおよぶ大型のもので、笠塔婆型の姿をしている。正面に大きく「三界万霊万日廻向 延宝三乙卯年十月十五日 願主木食唱鉄空誉敬白」とあり、左側には「光明遍照十万方世界 念仏衆生摂取不捨」という観無量寿経の偈(げ)の文字と、その中間に庚申講中の刻字がある。これらのことから、この塔は、延宝三年(1675年)に木食唱鉄(きじきしょうてつ)の発願で、庚申講中の人々が、僧侶の指導のもとに造立した珍しい念仏供養塔であることがわかる。』(品川区教委)

考える人……

3体ともどこか似ている。作者が同じなのかもしれない。

本堂前から右の車の入り口方向にもたくさん並んでいた。
 寛永元年(1624年)に中興開山された唱岳長音木食上人は、自ら彫刻した阿弥陀如来像を安置して千日の不断念仏行を勤まれ、その後もあまたの仏像を刻まれたそうだ。

中央は聖観音だろう。

袖都定座位?……なんのことやら? 修行の足りない私。

お姿良く浮き彫りにされた「三界萬霊塔」……左に「六親眷属(ろくしんけいぞく)」と彫られているが素人の私には分からない。説明書きが欲しいな。

境内西側の門にお立ちだった。

中興開山の長音上人は、晩年『羽州秋田念来山帰命寺に止まり、79歳で地中深く穴を掘り、その中に棺を入れて、自ら棺の蓋を閉じ、鐘を叩いて念仏を唱えながら捨身入定なされ、静かに極楽に参られました。(天台宗東京教区HPより)』とのこと。南無阿弥陀仏

お車の方からはこんな入り口から……奥の立派な建物は納骨堂・永代供養墓地のようだが、本堂は上部にあるのかもしれない。建築監修は安藤忠雄氏らしい。渋谷駅のように不便な造りでないことを願う。

安養院駐車場前を歩くとすぐに目黒不動だ。鰻屋は次の角にあるが、疲れたから買わずに帰宅した。元気をつけるには食べた方が良かったかもしれない。昨年6月以降、食べていないからそろそろ口にしても良いかもしれない。

今日の「My First JUGEM」は……『ひな祭り……』