足跡(寺社)93・正泉寺・宗導寺……2019.8.25

日記帳によれば7月下旬から長いこと暑い日が続いていたので、8月はまったく遠くへは歩かなかったようだ。前年10月末日で珈琲舎バンが閉店してしまい喫茶店難民をしていたのだが、西小山のポエムを見つけて通いだした時期。ホットドックモーニングの帰りにお邪魔した2019年8月25日のこと……

円融寺の東側に正泉寺山門がある……(目黒区碑文谷1-8-14)

浄土宗寺院「正泉寺」は、元亀3年(1572年)、相馬郡(現在の千葉県・茨城県の一部)に「泉応院」として創建されたが、天正18年(1590年)、徳川家康の江戸入府とともに江戸に移転して「正泉寺」に改称された。その後江戸市中を転々とし、現在地に移転したのは明治末期から大正初期にかけてのことらしい。ご本尊は阿弥陀如来であろう。

なぜか本堂前の真ん中に燈籠が……

地蔵菩薩にも手を合わせ、本堂前で南無阿弥陀仏……

本堂扁額……法呑山は「ほうでんさん」「ほうどんさん」??? 読みづらいが、仏法を飲み込むことなのだろう。院号は「長源院」のようだ。

本堂正面から右手に、端正に刈り込まれた木々に囲まれた通路があった。表から見ただけでは分からないが、奥も深かった。

屋根に守られておいでだったのは、阿弥陀如来坐像だろうか……

墓地への入り口に……風車があるから水子地蔵か、あるいは子育て地蔵か。いずれにしても手だけ合わせてきた。

山門前に、こんな石碑があり……

説明書きもあったのだが、お墓へは立ち入らないようにしていたので当日はスルーして帰ってきてしまった。撮った写真を改めて見ると「東京都指定旧跡」と謳われていたので「立ち入っても良いだろう」と、4日後の8月29日に再訪した。(以下は29日の写真)

墓所内のいくつもの通路をウロウロしてご対面「式亭三馬の墓」……式亭三馬(しきていさんば)とは江戸時代後期の戯作者(げさくしゃ)で、「浮世風呂」「浮世床」「古今百馬鹿」などが代表作だそうだ。文政5年(1822年)47歳で亡くなり、深川雲光院の寺中長源院に葬られたが、関東大震災後に当寺墓地に改装された。
 蛇足ながら、この日はブランチへの行きがけに寄ったようだ。日記にはタラコスパゲッティが記録されていた。比較的クーラーが効いているポエムで食事をし、新聞も読んだが、首に巻いたタオルは店を出るまでに乾かなかったほど暑い日だったようだ。

墓石台座にある「る」の文字を崩した馬の字(くくり猿)は、三馬が経営していた売薬店の商標だと。

これまたウロウロうろうろしてなんとか見つけた「羽倉簡堂(はくらかんどう)の墓」……羽倉簡堂(はくらかんどう)とは、1790~1862年、江戸時代後期の儒者・武士とのこと。天保13年(1842年)老中水野忠邦に起用され納戸頭、勘定吟味役などを務めた人物だというが、天保の改革主導者・水野忠邦は野心バリバリの人だったらしいから、仕えるのは大変だったであろう。
 墓石には「羽倉用九之墓」と彫られていたが、「用九」=(もろちか)と読むらしい。左右を取り囲むようにあるのは親類縁者のお墓であろう。

汗をかきかき墓所を後にして喫茶店に向かった……

パスタランチを食べながら「あの辺にもお寺らしきを目にしたな」と、記憶をたどってこんな道を歩いて……

町会に見える建物だが……(目黒区目黒本町6-19-3)

浄土真宗本願寺派 宗導寺」と表札にあるから寺院だった。残念ながら詳細は不明だが、門前で合掌して南無阿弥陀仏と心で唱えてきた。
 蛇足ながら、写真が綺麗になったのだが7月29日に変えたスマホを使いだしたころだ。もうすぐ丸5年になる。使い始めた頃は、フル充電して出かければ写真は500枚撮れたのだが、現在は200枚がやっと。バッテリーも弱っているが、並行して私の体力も落ちた。大量に撮る場所へは行かなくなったから良いが、もっと簡単にスマホのバッテリー交換が出来れば良いのに。ショップやメーカーは、どんどん買い替えてもらいたいのだろうが、循環型社会形成の基本原則に挙げる3つのR「リデュース(Reduce)」「リユース(Reuse)」「リサイクル(Recycle)」の考え方とは違う。

今日の「My First JUGEM」は……『裏金に不倫……』