足跡(寺社)71・五百羅漢寺……2019.3.2

林試の森公園河津桜を見てから足の向くままに歩いた2019年3月2日のこと……

不動尊の仁王門前から塀伝いに細い路を歩くと「天恩山五百羅漢寺」(目黒区下目黒3-20-11)……元禄8年(1695年)鉄眼道光禅師が江戸本所(現在の江東区大島3丁目)に創建した黄檗宗の寺院。当時は、境内にあった内部が螺旋階段になっている建物「三匝(さざい)堂」で、諸仏像を一堂に拝見できると人気を博したそうな。明治41年(1908年)に当地に移り、昭和23年(1948年)に禅宗羅漢寺派として独立分派とのこと。
門前は幾度も通ったが、初めての入山だった。

「らかんさん」のお一人「不退法尊者」の像が出迎えてくれた。「苦しさに負けず いつも心あかるく 最善を盡(つく)す」……私には耳の痛いお言葉だが「いつも心あかるく」ぐらいは心がけねば。
 ちなみに「らかんさん」はお釈迦さまの説法を実際に聴き、修行に励んで聖者となった実在するお弟子さんたち。インドでは、修行を積んで煩悩を払い真実の智慧を完成した聖者を「アラハン」と讃えたが、仏教が中国に伝わると「阿羅漢」と表現される。そのうちに「阿」がとれて「羅漢」と呼ばれるようになったらしい。
 提灯には葵の御紋が入っている。八代将軍吉宗も援助されたようだから、そのためだろう。

「羅漢堂」……元禄時代に松雲元慶(しょううんげんけい)禅師が江戸の町を托鉢して集めた浄財をもとに十数年(1691~1710年)かけて彫りあげた羅漢像が居並んでいる。当初は500体以上あったとされるが、現存する305体のうち、本堂に納めきらない146体が安置されている。
 ちなみに五百羅漢のモデルは、お釈迦さまが亡くなられたときに集まった500人のお弟子さんたちだと。

「目黒のらかんさん」……館内は撮影禁止のため、五百羅漢寺のHPよりお借りした。「らかんさんのことば(本)」も買ったことだし、勘弁してくださるだろう。ちなみに、外部からでも仏像が映りこんだ写真は撮らないでと書かれていた。私はちゃんと守ります。

「本堂」には、釈迦如来とその弟子である羅漢さんたちが一堂に会し、お釈迦さまが羅漢たちに説法する光景が再現されている。
 右は、失意の人の再起の願いを叶えてくれる身の丈3.5mの「再起地蔵尊」で、その右隣には次の「碑のこみち」がある。

当山ゆかりの石碑が、奥まで両側に並ぶ「碑のこみち」……

水子供養堂と子育て地蔵」……地蔵菩薩は、迷い苦しむ人々を救うまでは如来にならないと願を立て、人々の苦しみや悲しみをやわらげ、願いごとを聞いてくださる菩薩さま。

魚の形をした自然石の「庖魂(ほうこん)の碑」……魚鳥と包丁の供養。

さくら隊 原爆儒殉難碑」……広島に原爆が投下された昭和20年8月6日に、巡業中だった新劇の名優「丸山定夫」の主宰する移動演劇隊「さくら隊」が被ばくし、団員9名が悲惨な最期を遂げた。旧友たちの死を哀悼し、原爆と言う非人道的な武器を発明した人類の愚かさに永遠に抗議するため、昭和27年(1952年)徳川夢声によって建てられた。碑の文字も、元祖マルチタレント徳川夢声とのこと。

「興安(こうあん)友愛の碑」……第二次世界大戦終末の混乱に巻き込まれ亡くなった多くの方々の精霊を慰めるための碑で、中心部には二千余柱の遺骨および遺髪、遺品等が納められているとのこと。戦争がなくなりますように。

「天恩供養塔」……同寺の檀信徒各家の先亡の方々の分骨を納めて守る供養塔とのこと。「宝篋塔(ほうきょうとう)」とのことだが、経文を納めた「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」の後続だろう。

天恩供養塔の左にあった。千木(ちぎ)は置いただけの飾りでなく、中から突き出ていた。堅魚木(かつおぎ)も奇麗に並んで美しい。詳細は不明だが、榊が供えられ、扉が3つあるため、三神が祀られているのだろう。

「お鯉観音」……「お鯉」と呼ばれた八頭身美人の名物芸者「安藤妙照(本名:安藤照)」は、数々の文化人・政治家とも親交をもち華やかな人生を送っていたが、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって荒廃した五百羅漢寺の再興を決意し、昭和13年(1938年)同寺の住職に就いた。「縁結び」「芸能大成」を願う女性のお詣りが絶えないらしい。

「平山盧江(ろこう)の歌碑」……
 このあたり いつも二人で歩いたところ
 思ひ出しては まはりみち
歌碑の下には盧江の分骨が納められているそうだ。私はこの方を存じませんので何も書けないが、歌のように連れ合いと二人で歩きたいとだけ言っておこう。

高浜虚子の句碑」……安藤妙照禅尼(お鯉さん)と親交があり、しばしば同寺に足を運んだと。妙照禅尼がお鯉のころ、虚子の実兄・池内伸嘉の舞台で「羽衣」を舞った際、虚子の打った太鼓の掛け声があまりにも大きかったため、思わず間を誤って踏み外したとのエピソードが『遠きゆかり』とのこと。

本堂正面でお線香を供え、振り返ると「御腰掛け石」……羅漢寺の隆盛に尽力した8代将軍・徳川吉宗が遊猟の際の御膳所にしていたと。享保20年(1735年)に置かれた石とあったが、吉宗がはじめて同寺に立ち寄り銀子を置いていったのは享保 9年(1724年)とされているから、長い付き合いのようだ。
「腰掛けないで」とは書かれていなかったので座ってみてもよかったが、お尻が汚れそうなので止めた。
 写真は他にも撮ったが、リメイクだから全部は載せない。写経の筆と寅の値付けを連れ合いのお土産に買った記憶がある羅漢寺だった。

五百羅漢寺の隣に黄檗宗寺院「海福寺」……江戸深川に開創したのは羅漢寺よりも少しだけ早く、当地に移ってきたのは羅漢寺の方が早かったようだ。海福寺がこちらへ引っ越された明治43年(1910年)には、黄檗宗寺院2か寺が並んでいたことになる。
 以前お邪魔したのでこの日はここで手だけ合わせて失礼した。南無釈迦牟尼仏

海福寺山門近くから北西に向かう路地を入った。先には幾重にも石段が待っていたが、登りきると……

青木昆陽の墓」……見晴らしのいい高台は龍泉寺の墓地になっていた。

「甘藷先生」と彫られており、目黒不動境内に記念碑があった理由が分かった私であった。

山手通りへ下る道……上ったら下らなければならない。坂の途中に、小型の不動明王がおられた。

山手通りに出て大鳥神社の隣にある、弘治3年(1557年)開創とされる、目黒不動瀧泉寺の末寺で天台宗寺院「大聖院」の「切支丹燈籠」をパチリ……『織部式燈籠とも呼ばれるそうで、三田千代が崎の旧島原藩主松平主殿頭(とのものかみ)の下屋敷(後の大村伯邸)林泉中の小祠内にありましたが、大正15年10月に大聖院に移した。中央のもっとも高い1基の棹石には変形T字クルスとキリスト像とおもわれる形状が、また左右面に、漢字が刻まれている。この燈籠は徳川幕府の弾圧を受けた隠れ切支丹が庭園の祠等に礼拝物として密かに置かれていたもので、歴史的に文化的価値が高く、全国的にも数少ない燈籠』だと目黒区教育委員会の説明書きがあった。

大行列のラーメン二郎を横目で眺め、馬喰坂(ばくろざか)を上って庚申塔群を拝み、今度は下って変則五差路の交差点脇の谷戸前川緑道に……

探していた「とちの木庚申」があった。陰に隠れていたからパッと見は気付かない。そばを流れていた川から拾われたものだそうで、傍らにあるとちの木からこう呼ばれるようになったと。現在、とちの木はない。もみの木なら残ったかもしれないが……

今日の「My First JUGEM」は……『ちびシクラメン……』