足跡(寺社)3・目黒不動尊―海福寺……

K917をさわっていたから、とっくに昼を過ぎていたが天気が良かったからチョコッと散歩に行った2017年2月12日……蛇足ながら、日曜日で珈琲バンが休みだったからモーニングはコロラドだったようだ。日々の天気と食べたものは書き留めているから分かる。

林試の森河津桜は満開だった。桜吹雪が舞う直前…

目黒不動尊仁王門」……なぜこちらへ足を運んだかは記憶にない。正式名称は「泰叡山 護國院 瀧泉寺

「独鈷の滝」……開山以来、千百有余年涸れずに流れる霊水『龍御神水』とのことだが、本当なのかしら。

高台の本堂に向かってよっこらしょ……

「大本堂」に黙って手を合わせた。天台宗は「南無阿弥陀仏」だと、当時は知識がなかった。「目黒不動尊」と書かれた大きな提灯が下がっているように、本尊の不動明王が鎮座しているのだろう。関東三十六不動霊場十八番札所

「微笑観世音菩薩」……他にも本堂の左右には虚空蔵菩薩愛染明王、意志不動尊延命地蔵菩薩、護衛不動尊などがお並びだった。阿弥陀堂観音堂地蔵堂、勢至堂、前不動堂、山不動等々、他にも手を合わせるべきところはたくさんあったが、だいぶ陽が傾きかけてきたのでまたの機会とした。寺社に興味関心があったわけではなく、いつもと違う場所を歩こうと考えた頃だから仕方ない。

目黒不動尊を後にして有名な五百羅漢寺をパスしたのだが、近くの石段の上にお寺発見……黄檗宗(おうばくしゅう)「海福寺」参道。

「四脚門(よつあしもん)」……明治後期に新宿区上落合の泰雲寺にあったものを移建したそうだ。江戸時代中期のものらしい。(区指定文化財)

ひっそりとした静かな佇まいのお寺……万治元年(1658年)、明から来朝した隠元隆埼(いんげんりゅうき)が江戸深川に開創し、明治43年(1910年)にここへ移転したとのこと。本尊・釈迦牟尼仏隠元禅師の像、12世紀頃に京都あたりで作られた木造阿弥陀如来立像などが安置されているようだが、残念ながら勿論拝見できない。
 臨済宗曹洞宗と並ぶ黄檗宗は日本三禅宗の一つだとこの時に知った。その後の散歩で、禅宗の目的は自分自身の心に向き合い、心の中に存在している阿弥陀仏に気づくことであり、そのために必要なのが「坐禅」なのだと学んだ。私の心に阿弥陀仏はおいでだろうか……
 またまた蛇足だが、黄檗宗で読まれるお経の基本は般若心経だが「まかはんにゃはらみたしんぎょう…」の日本語読みではなく「ポゼポロミトシンキン…」といった具合の中国的な読み方をするようだ。

「梵鐘」……深川にあった当時の海福寺が全焼した際、梵鐘も失ったため、天和3年(1683年)に新鍮した銅製で高さ139.5cm、口径78.8cmの立派な梵鐘。武州江戸中村喜兵衛藤原正次の制作。(東京都指定文化財)

「文化4年永代橋崩落横死者供養塔及び石碑」 (東京都指定文化財)
『文化4年(1807)の深川富岡八幡宮の大祭は、大喧嘩が原因で中止されていた祭りが12年ぶりに催されたため大変な賑わいだった。しかし将軍世子らの御座船が永代橋の下を通過する間、一時的に橋上の通行が禁止された。通行止めが解除されて一斉に群衆が橋を渡った時に橋の中央付近が崩落し、多くの人が隅田川に転落。多数の溺死者を出す、江戸開府以来の大惨事が発生した。
事件後、当時永代橋に近い深川寺町通り(現・江東区深川二丁目付近)にあった黄檗宗永寿山海福寺に無縁仏が埋葬された。そして百日忌に供養塔が、安政三年(1856)の50回忌に石碑が、海福寺境内に建立された。……』(東京都教育委員会)
 明治43年(1910年)にここへ移転したのだが、溺死者は480人という説らしい。
 隅田川にかかる永代橋は元禄11年(1698年)の開通で、江戸随一の長さを誇り、富士山をはじめ眺望がよく優美な橋だったとのこと。老朽化もあったのだろうが、狭い所に群がっては危ないという教えがこの時からあったと言うことだ。
 崩落ではないが、平成13年(2001年)の明石花火大会歩道橋事故も記憶に新しい。昨年のソウル梨泰院雑踏事故と同じで「群衆雪崩」により死傷者がでている。いずれにしても、混雑している場所には近寄らないことが一番だ。

今日の「My First JUGEM」は……『目標は2兆円……』