足跡(寺社)34・泉岳寺……2018.12.15

歯医者の帰りに、魚籃坂を上ってから、伊皿子坂を下って泉岳寺を訪問した2018年12月15日のこと……写真の時間を見たら11時だった。朝食も摂らずに朝一で歯医者に行ったようだ。

泉岳寺中門」……元来、泉岳寺には「総門・中門・山門」の三つの門があったが、現在はこの中門と山門のみが残っている。

こちらが「山門」……着いた時はたくさんの方で埋め尽くされていたから、空くまで少々待機した暇な私。皆さん義士のお墓参りだった。

山門手前の右に「大石内蔵助良雄銅像」……浪曲の宗家・桃中軒雲右衛門の発願により鋳造されたもので、当時の風俗である元禄羽織をまとい、連判状を手にして東の空(江戸方向)をじっとにらんでいる姿を表したもらしいが、現在は南向き。江戸城は後方だ。

「本堂」……泉岳寺は慶長17年(1612年)に門庵宗関(もんなんそうかん)和尚(今川義元の孫)を拝請して徳川家康が外桜田に創立した曹洞宗の寺院。寛永18年(1641年)の寛永の大火によって焼失したため、現在の高輪の地に移転してきた。
 鎌倉様式の現本堂は、昭和28年(1953年)12月14日に落成したとのこと。やはり赤穂浪士の日を意識したのだろう。

本堂前左手に「澤木興道老師像」……仏法の究極である坐禅をもって生涯を貫いた二十世紀にもっとも活躍した禅僧の1人と書かれていた。南無釈迦牟尼仏……

本堂前境内の左側に「講堂」……赤穂義士記念館ができるまでは、義士館として使用されていた。以前訪問した時は、江戸時代終わりから明治2年までに制作された四十七義士の木像をこちらで拝見した。現在の講堂は平成16年(2004)に改装されたようだから、私が訪問したのはそれ以前だったのだろう。

講堂の脇に「主税梅」……大石主税切腹した松平隠岐守三田屋敷に植えられていた梅らしい。16歳での切腹は辛いな~

義士の墓へとつながるアプローチも新しくなっていた。左側が新設された「赤穂義士記念館」。入館料がかかるから、私は入らない。

「血染めの梅、血染めの石」……浅野家匠頭が田村右京大夫邸の庭先で切腹した際に、その血がかかったと伝えられる梅と石だと。切腹は痛い。

「首洗い井戸」……義士が本成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したそうだ。「首級(しゅきゅう)」とは、中国、戦国時代の法で、敵の首を一つ取ると爵一級を得るところから、討ち取った首を指すようだ。

義士の墓地入口手前に「大石家」の墓……

赤穂義士墓地内に「長矩公夫人之墓」……浅野内匠頭(たくみのかみ)長矩(ながのり)さんの奥さんのお墓らしい。名は阿久利(あぐり)と言い、余生は瑶泉院(ようぜんいん)の院号で長矩および義士の菩提を弔ったそうだ。16歳で結婚し、45歳で他界するまで波乱の生涯でしたでしょう。

元禄16年(1703年)2月4日に切腹した後、この地に埋葬された。熱心な方々がお線香を手にお参りされていた。

一番人気は「大石内蔵助」の墓……みなさん順番待ち。行年45歳とあった。

いわゆる四十七士の他に、討ち入りを熱望したが周囲から反対され、討ち入り前に切腹した萱野三平さんと言う方の供養墓が60年程後に建立されたようだ。したがって、ここの墓碑は48あるとのこと。入口で求められる線香も48本あるのだろう。

皆さん丁寧に、お一人おひとりの墓前に線香を供えておられた。

討ち入りの際は裏門攻め入りの隊長「大石主税(ちから)」の墓……大石良雄の長男だが、若いというより幼かっただろうに。武士とはかくあるものなのか……

主税の隣に供え物が目立った墓碑があった。「堀部安兵衛」の墓……行年34歳。お酒が好きだったのかしら? でも、誰が置いたのか「ウォッカ」は口にしたことなかっただろう。

境内から見た山門……一階部分の天井には「江戸三龍」のひとつ銅彫大蟠龍がはめ込まれているそうでだが、そもそも山門真下は通行止めだったから拝めない。

この年最後の紅葉……無理やり撮った。

そして青空……冷たい風が吹いていたっけ。

今日の「My First JUGEM」は……『珪素の勉強……』