足跡(寺社)30・野沢龍雲寺・2018.12.03……

「龍雲寺 見てきてくださいな~」と連れ合いに言われていたので、毎日お世話になっているの恩返しに出かけた2018年12月3日……

「龍雲寺山門」(世田谷区野沢3-38-1)……きちんと正門から入山した。

臨済宗 龍雲禅寺」と石碑にあるように、臨済宗妙心寺派の寺院で山号は「大沢山」。
 時は元禄12年(1699年)、赤穂浪士の討ち入りの3年前。野沢村にお寺が必要だと切望した名主田中七右衛門等が、現在の旭小学校敷地内にあった「智見寺」の名義を譲り受け「龍雲寺」と改名。廃寺となっていたのだろうか、節外大和尚が引き継いで龍雲寺を開山したと。
 一方『新編武蔵国風土記稿』には、『昔、下馬引澤村に智見寺という廃寺があった。そこに麻布「光林寺」の三世である霊源和尚が年を取ったため隠居した。間口七間の本堂の本尊は光林寺を開いた盤珪和尚作の如意輪観音坐像であった。また、本堂に向かって右手には地蔵堂があり惠心僧都作の地蔵菩薩が安置されていた(同寺HPより抜粋)』とあるようで、風土記では霊源和尚の隠居とされているが、龍雲寺の記録では開山は節外和尚、創建は霊源和尚となっているとのこと。いずれにしても、二人の和尚の協力で建てられたのでしょう。
 しかし、「光林寺」とは、なんと懐かしいことか。数年間 毎日のように前を通り、脇の店でランチをいただいたことを思うとこちらも縁のある寺に感じる。

山門をくぐると大きな植え込みに隠れて、向こう正面の本堂は隠れている。
石碑は「一期一会」……
いつもの癖で思い出した、中島みゆきさんの一期一会
『見たこともない空の色 見たこともない海の色
 見たこともない野を越えて 見たこともない人に会う
 急いで道をゆく人もあり 泣き泣き道をゆく人も
 忘れないよ遠く離れても 短い日々も 浅い縁(えにし)も
 忘れないで私のことより あなたの笑顔を忘れないで…』
 私のことよりあなたの笑顔を忘れるな、ってのがいい。

昭和40年(1965年)に完成した鉄筋コンクリート平屋造りの「本堂」……南無釈迦牟尼仏。私より若い。

五三の桐が眩しい「蓮型の天水桶」……

本堂正面から90度右を向くと……紅葉には一足遅かったかもしれなかった。母がお寺の行事で外出していた2019年に連れ合いと一緒に行った時の紅葉は綺麗だった。

【附けたり】2019年11月24日の紅葉写真……よく同じ景色を覚えていて撮れるものだと自画自賛

【附けたり】きれいきれい……連れ合いも写真を撮っていたな~

本堂の正面に「細川宗源師之像」……安政2年(1855年)の大地震により大破して以降、復興はすすめられたようだが、本腰を入れられたのがこちら第十世宗源和尚の代だったらしい。現住職は細川晋輔氏も地域のために努力しておられる様子だ。

山門を入ってすぐ左方向にはさまざまな石仏が配置されていた。ほとんどは地蔵菩薩だろうと思われるが、「半跏思惟」の観音様は墓塔なのかもしれない。

一枚石を彫ったように見える「六地蔵」……みなさん目を閉じて黙禱。
 目を閉じて 何も見えず 哀しくて目を開ければ荒野に向かう道より 他に見えるものはなし……地蔵菩薩は心の目で見えている。

「鐘楼」をバックに、限られた紅葉を撮った。

「多子塔」と彫られていた。多子塔(たしとう)とは庚申塔であるとする情報も目にするが、定かではない。いつか同寺に訪問する機会があったら伺ってみよう。忘れなければだが……

境内左奥に鳥居……扁額には「三峯神社榛名神社」とある。野沢講として三峯神社(埼玉県)・榛名神社群馬県)に雨乞いのお参りに行く行事も150年以上続いているようだが、三峯神社榛名神社から分けていただいた神社がここにもある。ちなみに、野沢稲荷神社例大祭の神輿はこちらへも繰り出されるらしい。

子育地蔵尊……

台座に「愛」……子どもをかかえているから「子育観音」かしら。

お狐さまの姿はなかったが「稲荷大明神」も鎮座していた……

本堂前にもどると、巨大版盆栽のような立派な松にビックリ!!

庫裏への路……地域にマンションが建つ際、代々守ってきた木を伐採したくないので龍雲寺で引き取ってと頼まれた野沢に生えてきたたくさんの木々が境内に植えられている。

上とは違う通路……広葉樹ばかりでないことも風情があっていい。

黄色の紅葉……天気が良かったらな~

でもって「南薫亭」という茶室脇の裏門から失礼した。
 毎日 義母に付き添ってくれているから連れ合いとの散歩はできない。今年はちょこっとでも一緒に近くの紅葉が見られたらいいのにな。

今日の「My First JUGEM」は……『昨日の天ぷらそば……』