足跡(寺社)47・天現寺……2019.1.13

歯医者帰りに白金の寺社を巡り、南麻布も歩いた2019年1月13日のこと……

光林寺から明治通りを西に進むと「天現寺」山門(港区南麻布4-2-35)……度々通過したが、立ち入ったことは初めて。

山門を入ると、手水舎の先に客殿……

足元だけ新しい「手水舎」……地震対策か木材劣化防止なのかもしれない。

新しそうな客殿・寺務所……私はご朱印を賜らないのでお寄りしない。たまに、山門から事務所に直行してご朱印をお願いする女性を見受けるが、本堂にお参りしてからにすれば良いのにと思う私。

「本堂」……「毘沙門天王」と刻んだ石碑がある。

扁額は「多聞天」とあった。当時の楽天日記には書いていなかったが、本尊として毘沙門天の像(樟の丸木作り、高さ103.5㎝)を祀っているとのこと。聖徳太子の御作と伝えられ、多田源氏満仲の念持仏だったらしい。
 毘沙門とは「全てのことを一切聞き漏らさない智慧者」の意味を持ち、別称は多聞天とのこと。多聞天を祀ってあるから、本堂というより「毘沙門堂」「多聞堂」と言った方が良いのかもしれない。同寺の山号「多聞山」の由来もここに在るようだ。

本堂前には一対の「狛虎」……客殿前にも配されていた。

徳川家康公が江戸に幕府を開いてからは寺院も数多く創建され初めたが、享保の初め頃になると特別な理由のない限り新たな寺院の建立は許されなくなったらしい。そんな中、小日向御簞笥町(文京区)にあった臨済宗大徳寺末の普明寺を引継ぎ、「祥雲寺」11世良堂和尚が開山となり享保四年(1719年)現在地に移築して多聞山天現寺と改めて創建したとのこと。ちなみに「良堂和尚」という方は、その後「東海寺」54世に転住の後、本山大徳寺293世も勤めた名僧らしい。※  祥雲寺とは渋谷区広尾の寺院だろう。見逃していたが、機会があったらお寄りしてこよう。
「小日向」と言うと、漱石志賀直哉の小説にも登場するが、石川啄木横溝正史、阿部公房などの旧宅があったらしい。

本堂と向き合うように「六地蔵」……

養成中のためとして芝生にはロープが張られていたが、現在はどんな姿なのか……

山門の外は「天現寺交差点」……「天現寺橋交差点」が正しいのかもしれないが、私の知る多くの人は「橋」を付けない。分かるから、それで良いのだ。

【附けたり】2021年1月31日の写真

京急新馬場駅のほど近く、写真右端の目黒川に架かる要津橋(ようじんばし)の手前に、天現寺を開山した良堂和尚が54世を務めた「東海寺」はひっそりと佇んでいる。(品川区北品川3-11-9)

東海寺は寛永15年(1638年)に三代将軍徳川家光が、名僧沢庵のために創建した臨済宗大徳寺派のお寺。かつては広大な寺域を有し、享保元年(1716年)には塔頭が17院に及んだとされる。残念ながら、幕府や大名の支援がなくなった明治維新以降は衰退し、現在の東海寺は塔頭の一つであった玄性院が寺号を引き継いだものだと。また、境内も当時の位置ではないらしい。
いつかそのうちに、附けたりではなく載せる日がくるだろうから今日はさわりだけ。

今日の「My First JUGEM」は……『焚火禁止……』