足跡(寺社)66・行善寺……2019.2.20

連れ合いに頼まれて、二子玉川の「玉眞院・玉川大師」に向かった2019年2月20日のこと……

法徳寺で、江利チエミさんのお墓に参ったあと行善寺坂の上の方(瀬田1-13)に立っていた。縄文時代前期の貝塚遺跡らしく、竪穴式住居跡や貝殻などが確認されているという。規模は、この辺りの瀬田1・2丁目の東西約450m、南北約550mと推定されるらしいが、現在高級住宅地となっている地域に、大昔から人が住んでいたようだ。海岸が接近していたとは信じがたいが、高台だから津波に備えていたのかもしれない。

「瀬田貝塚跡」の石碑のある角を曲がると、左先に寺院らしき塀が見える……この道はかつての大山道の一つ「行善寺坂ルート(南大山道)」だ。瀬田交差点あたりから分かれるもう一つは「慈眼寺坂ルート(北大山道)」。どちらも寺院から多摩川に向かって下っている。

紅白の梅が塀から乗り出していた。

「行善寺」門前(世田谷区瀬田1-12-23)……道路工事をされていたので、残念ながらこの角度からしか撮れなかった。

「山門」……左のヒノキは「三つ又のヒノキ」と呼ばれ、有名みたいです。

山門左に「観音堂」……如意輪観音様が祀られているそうだ。

供養塔に成田山と書かれていたが「宗派がちがうんじゃないのかしら?」と小首をかしげる私……

観音堂外の左奥に……

右奥にもいらっしゃった……守っておいでなのか。

「猫塚」……三味線に使われた猫を供養した塚。逆光は苦手だ。
 江戸時代から昭和の初めにかけての多摩川は水が綺麗で景色も良かった。料亭や遊郭などもあり、人々の行楽地だったと言う。芸者遊びに欠かせない三味線も多く必要だったろうから、皮をはがされた猫たちの霊を弔ったと思う。ちなみに、当時は多摩川でとれた鮎の塩焼きなんてのを楽しんだことだろう。

山門前の三つ又ヒノキ……三鈷杵(さんこしょ)を連想する私。

山門の右にはモダンな建物……客殿と書かれていたと思う。

参道を進むと菩薩様……

お姿が美しいのでもう一枚……

「行善寺本堂」……扁額は「獅子山」だった。浄土宗寺院で、院号は西光院。本尊は阿弥陀如来らしい。南無阿弥陀仏
 世田谷城に拠点を持つ吉良氏の支配下となった北条氏直臣の長崎伊予守重光父子は、永禄年間(1558~1569年)にこの地を賜り居を移して瀬田城を築いたとされる。(城跡地は同寺の近くとのことだが、城というより砦程度だったと推察する。)
 その長崎伊予守重光が、この地に移ってくる折に小田原の菩提寺「道栄寺」から先祖の位牌を携え、この台地下に同寺を開基したようだ。重光の法号である行善をとって行善寺と名付けられ、寛永年間(1624~1644年)に台地下から台地上の当地へ移ったそうだ。

本堂右の寺務所・客殿は現代的だ。 灰皿が置かれていたので一服……ありがとうございました。

本堂左に発見……見過ごさなくて良かった。

本堂の裏側へ……

世田谷百景……展望にあこがれて将軍様も寄られたそうだが、同寺の雪景色も人気があったらしい。10万年以上の歳月をかけ、多摩川の流れが武蔵野台地を削り取ってできた「国分寺崖線」の上だから、見事な大パノラマ展望だった。

天気が良ければ富士山も臨める。おっと、鉄塔がたくさんあることに今気づいた。

行善寺八景を引き返して、手入れの尽くされた境内……

こんな石塔もあった。……左の二又の木は、やはりケヤキか?

後ろ姿と山門……
『うしろすがたの しぐれてゆくか』(山頭火
 秋の終わりから冬の初めに、降ったりやんだりする小雨=時雨(しぐれ)時の行善寺も良いかもしれない。

ぼちぼち失礼しようと山門に向かった……

門前は行善寺坂が目前の旧大山道……

玉川大師に向かうため、境内北側にこんな路地を発見……

けっこう危ない階段だが、当時の私は平気で降りられた。

本堂裏側からよりも視野は狭いがなかなかの絶景だった。但し、この石段を上り下りする近隣住民はシンドイだろうが……
 こんなリライトをしながら、常に思う。もう5年も経ってしまったのだと……

今日の「My First JUGEM」は……『シャコバサボテン……』