足跡(寺社)64・光明寺……2019.2.10

未訪問だった池上七福神3ヶ所を訪ねてみた2019年2月10日のこと……

藤森稲荷から環8を渡ってやってきた「光明寺」(大田区鵜の木1-23-10)

光明寺山門……山門左は工事中のフェンス。境内も参道右側は広く工事中だった。

参道左手に……難しい漢字は不得意だが「倶会一処(くえいっしょ)」。そうであれば「倶(とも)に一処に会(え)する」と言う意味。

隣に六地蔵……

さらに隣も地蔵尊だろうか……

参道を進むと正面に「本堂」……仕出し屋さんらしきが回収に来られていたようで、トラックと右の建物「阿弥陀堂」を一人で何往復もされていたから邪魔をせぬようささっと……

阿弥陀堂」……南無阿弥陀仏

本堂前に「旅立ちの法然さま」……幼少にして父を失った折、出家して比叡山に向かうお姿だろうか? 若いころ家出の経験がある私だが、出家と家出とではずいぶん違う。

本堂右側の塀の向こう側に「鐘楼」……後方が墓地のようだったので立ち入らなかったのだが、八角堂と墳丘墓があったらしい。心残りの一寺だ。

本堂左側……

本堂にお邪魔するときは、こちらからだろう。

奥は客殿・寺務所・庫裏なのだろう……地面には枯葉一枚落ちていないほど掃除がされていた。日々ご苦労様です。

浄土宗寺院「光明寺」……天平年間(729~749年)に行基(668~749年)によって開創され、弘仁年間(810~824年)に空海が再興して「関東高野山宝幢院」と称したと伝えられる名刹だが、鎌倉時代の寛喜年間(1229~1232年)に浄土宗となり「大金山宝幢院光明寺」と改められてしまう。
 空海の興した密教の道場が消滅してしまうことを惜しんだ第3世行観は、真言宗高畑宝幢院(ほうどういん)を創建する。空海が名づけたであろう院号・宝幢院が二つの寺院で引き継がれていることになる。

【附けたり】……次の3枚は2021年6月24日の写真

「宝幢院(ほうどういん)」(大田区西六郷2-52-1)……山門を入って参道左には、延宝9年(1681年)に鋳物御大工椎名伊代守良寛の手により多摩川の河原で鋳造され、区内最古とされる梵鐘の下げられた鐘楼がある。右には遍照蜜院で、正面奥に本堂。

昭和54年に建てられたという「遍照蜜院(遍照殿)」……弘法大師密教と共に持ち帰った「護摩祈祷」護摩木を焼き尽くし、ご本尊・不動明王に祈る「不動護摩」が毎月28日に行われるようだ。本院の向かいには西国八十八ヵ所霊場のお砂が納められた「お砂踏み巡拝処」が設けられている。真言宗智山派寺院で玉川八十八ヶ所霊場結番。

遍照蜜院の脇にお立ちの弘法大師像……若かりし頃、修行中の室戸岬で口の中に明けの明星(虚空蔵菩薩の化身)が飛び込み、意識が大宇宙に溶け込んでいくのを感じた空海は、24歳に出家を宣言したのだった。
 左の松は「三鈷の松(さんこのまつ)」をイメージしているのか、はたまた私の考え過ぎか。

下調べで地図を見た折に「光明寺池」が目に入ったのだが、境内からは行かれないようになっていた「外からでも拝見しようと」表通りに出たら、左の歩行者用信号の下に……

光明寺道標」(大田区千鳥3-12)……嘉永4年(1851年)建立で、上部がちょっと折れている。見受けられなかったが、折れた部分は光明寺内に保管されているそうだ。これ以上壊れないことを祈る。

池を覗きに多摩堤通りへ廻ってみたが、左側は錆汚れたフェンスで隠されていた。私の後方も100mほど伸びた鉄製パネル壁の目的は分からないが残念だった。

下丸子商店会を歩き……

居酒屋 太郎……まだ営業されているかしら?

歩きとおすことを心がけていたが、なぜか下丸子駅から電車で帰った私だった。

今日の「My First JUGEM」は……『今年もシクラメン……』