足跡(寺社)5・上大崎の寺寺寺……

山手七福神妙円寺と瑞聖寺を訪問した2017年2月16日……出かける前に両寺の場所を地図で確認していると卍マークが固まっている場所が目に入ったので歩いてみた。

港区白金台に位置する妙円寺と瑞聖寺の中間の路を少しだけ南に入ると、品川区上大崎1丁目になり、この9ヵ寺の案内板が呼んでくれた。

私は勝手に寺長屋と呼んでいるが、とにかく肩寄せあって密集している。楽天ブログに載せた時には、みな浄土宗寺院ということ以外調べなどしなかったが、基本的に芝にある増上寺の子院ばかりで増上寺下屋敷と呼ばれるそうだ。増上寺周辺にあった子院が麻布狸穴に寺領をもらって移転するが、その寺領が幕府に公収されたために替地のここ上大崎に引っ越してきたと……ずっとひっかかっていたが、これですっきりした。

「極善山 最上寺」……もとは溜池にあったが火災で焼失し麻布狸穴に移り、さらに寛文元年(1661年)にこの場所に来られたと。院号は即相院のようだ。

「念仏院 本願寺」……山号は撰択山のようだが、やはり古くから引っ越された寺院だろう。現在なら、本堂前まで進んで手を合わせ少しの浄財を備えるが、当時は熱心でなかったから門前で首を垂れただけ。

「正福山 常光寺」……「常光寺」は、元和元年(1615年)に芝金杉で開山され、高輪北町に移転した後、明治42年(1909年)に当地にあった「正福寺」と合併し、翌年当地へ移転したとのこと。
 正福寺も、寛文元年(1661)に幕府御用地となった麻布から移ってきたのだが、安政3年(1856年)に本堂庫裡が倒壊してから再興できず、長きにわたり近隣寺院が同寺の寺務管理等にあたったというから、よき合併だったのだろう。山号「正福山」には、しっかりと「正福寺」も受け継がれている。

福澤諭吉先生永眠之地……明治34年(1901年)2月3日 永眠のときここに埋葬されたとのこと。福澤先生が生前自ら選定した墓地だが、昭和52年(1977年)福澤家の意向により麻布山善福寺に改葬された。明治34年ということは、当時は「正福寺」だったのね。

六地蔵菩薩もおられた……この後、たくさん見たな~

「東照山 戒法寺」……院号は栄願院のようで、元和8年(1622)に本芝に創建され、麻布を経て延宝2年(1674年)に当地へ移転したと。

大きな石の文字は読めないが、梅が咲き始めていた。

「朱珠山 宝蔵寺」……元暦元年(1184年)に開創されたらしいが、充分 地域に密着した風情だ。

地蔵菩薩が微笑んでいた。

隆崇院の門前に、こちらも地蔵菩薩かしら。

「善長山 隆崇院」……寛文9年(1669年)に創建された「隆崇院」という寺院が、明治37年(1904年)当地に移転し、翌年隣接していた「善長寺」と合併したと。善長寺の号が、現在も山号・善長山として受け継がれている。前記の「正福寺」同様、寺院運営を継続させることの難しさを知った。

延命地蔵大菩薩……

「法性山 清岸寺」……院号は浄国院のようだ。寛永元年(1624年)に八丁堀に創建され、やはり麻布を経て天和3年(1633年)にこちらへ移転されたと。

改修はされているだろうが、天保8年(1837年)に再建されたと云われる本堂は、周辺で唯一、第二次世界大戦の戦災を免れたと。

三界萬靈塔……この姿もあちこちで出会ってきた。

「宝蓮山 光取寺」……寛永元年(1624年)に芝創建され、やはり麻布を経て天和3年(1633年)に現在の場所に移られたと。
手前から工事中で道路の穴を掘ってあり近づけなかったが、戦火で焼失し、戦後に建てた本堂のようだ。
もう一ヵ寺「月窓院」があったはずなのだが、清岸寺過ぎから三角ポールを置いて掘削をしている道路工事のため寺への路地に入れず仕方なく通過してしまった。

光取寺の近くの道ばたに地蔵尊……
ということで、上大崎の寺長屋を歩いたのだが、関東大震災後の昭和3~4年に築地から大田区萩中にそろって移転した浄土真宗本願寺派の6ヶ寺を訪問したのは2021年4月10日だった。

今日の「My First JUGEM」は……『また贅沢してしまった……』