足跡(寺社)136・蒲田不動尊 大楽寺……2020.1.25

大田区矢口から多摩川を経由して新蒲田までやってきた2020年1月25日のこと……

道塚神社の南隣に……

大楽寺山門(大田区新蒲田3-4-12)……境内から出土している石碑などから寛仁3年(1019年)の開基と伝えられる一方、写真で残る焼失した本尊が場所と大きさから近隣寺院の本尊(和銅3年・710年・五尺五寸)と同時期のものと考えられるため1300年の歴史が確実とも言えるそうだ。とにかく古いが、古の昔には「極楽寺」と呼ばれ七堂迦藍(しちどうがらん)の整った壮麗な道場だったと。
 ※ 七堂迦藍=寺に必要な七つの建物……塔・金堂・講堂・鐘楼・経蔵・僧房・食堂
 表題を「蒲田不動尊 大楽寺」としたのは同寺のHPに習って。蒲田不動尊が境内に建立されたのは平成6年(1994年)と新しいが、人気があるのだろう。不動尊が先頭になっていた。

戦国時代には、小田原北条氏の軍勢が闇夜に新田氏を追って寺に火を放ったと。
 江戸時代には、徳川二代将軍秀忠が三代将軍家光のために経文一巻と朱印を奉納したとされる。その時に使用を認められた葵の紋が境内随所に見られるとのことは帰宅後に知った。職人さんが入っておられたから、ウロウロは遠慮してささっと撮った写真の中に葵の紋は写っていなかった。

昭和20年の大空襲で本堂、書院、山門等々すっかり焼失。昭和30年(1955年)に木造本堂が建立され、現本堂が再建されたのは昭和48年(1973年)とのこと。失うのは一瞬だ。
 本堂の扁額は「金剛法山」でご本尊は「阿弥陀三尊」。

本堂から見た境内……正面の山門と鐘楼の後方が道塚小学校で、右に蒲田不動堂がそびえる。

真言宗智山派寺院で「玉川八十八ヶ所霊場第六十七番札所」だけあり、本堂右でお会いした。南無大師遍照金剛
「東海三十三観音霊場第十二番札所」でもあり、千手観音が祀られているようだ。

六地蔵尊」がおられるということは、この本堂右側が裏の墓地への通路であろう。

六地蔵の先には、慰霊塔と石塔石仏が並んでいた。一番奥から「いぼ地蔵」「庚申塔」「六地蔵幢」だった。

左の石に「銭洗い弁財天」とあったので、五円玉を洗わせていただいた。
中央の祠には「琵琶弁天」「八臂弁財天」と書かれた木札があった。

なるほど、琵琶を抱えた弁天さまと八臂の弁天さまがお並びだ。茶碗と箸をもつ2本の腕を使うのがやっとの私は、八臂を自在に使える弁天さまはすごいと思うが、ダンゴムシはどうやって14本の足を制御しているんだろう。
 ちなみに、頭上に老けた男性の顔があることにたった今気付いた。蛇の体と老人の顔をもつ「宇賀神(うがじん)」らしく、それを頭上に頂く姿を「宇賀弁財天」と言うようだ。リライトしてみるものだ。

「延命子育地蔵堂」には……

優しいご尊顔の「子育て地蔵様」がお立ちだった。

足元には子育て中……しかし見事に彫れるものだ。

手水盤の後ろにお立ちなのは観世音菩薩かしら。

「無縁大塔」…… 弘法大師1150年遠忌記念 昭和56年(1981年)11月29日

法界萬霊塔は矢口の「延命寺」でもお目にかかったが、完全に無縁となってしまわれた方々の墓石だろう。
 全国で今年1~3月に自宅で亡くなった独り暮らしの高齢者が17,034人だったことから、1年間の死者数は約68,000人になると推計値が報告(時事通信5月14日)されていた。なくなる方のお墓もだが、ますます無縁仏が増えていく。悲しいがどうすればいいのか……

「不動堂」……平成6年建立と、新しいながらも人気があるそうだ。

成田山新勝寺および高幡不動より勧請されたお不動様は、2.7mの坐像。ガラス格子からお賽銭を入れたら、迫力のある声で法話らしきが聞こえてきた。「やろうと思ったことは早くやるんだよ~」みたいな。突然でビックリしたので少々聞き逃した。お賽銭を追加すれば良かったと今思う。

不動堂階段下にあった。なんだか分からないが、とりあえず撮っておくのが私の悪い癖だ。

何処もだが、手入れの行き届いた境内だった。鐘楼は昭和63年(1988年)らしい。東京ドームがオープンした年だが、もうそんなに経つのだと時の流れの速さに改めて気付く。

下層には屋根のない二階建てで、二階の縁には高欄が取り付けられている「楼門」は、とにかく美しかった。こちらも昭和63年(1988年)竣工とのことだ。寄付を下さる檀家さんがたくさんおありなのだろう。

今日の「My First JUGEM」は……『ダンゴムシ……』