馬込桜並木の下見ついでに、文士村散策の道と寺社をいくつか訪問した2月23日のこと……
山門を上り、無量門をくぐると左に……
手水盤の後方に「半杓水」と書かれていた。越前永平寺開創の道元禅師さまは、一杯の柄杓の水でも全部お使いにならず、半分は元の川の中に静かにおかえしになられていたと。もののいのちを大切にすること、後の世の人々が不自由しないようにとの思いやり。
杓底一残水(しゃくていのいちざんすい)
汲流千億(ながれをくむせんおくにん)
半杓水の所作そのものが禅の心だそうです。当時は即座に反応できなかったが、これだけで同寺が禅宗寺院と分かる。
手水舎の左……
「天勝観音」……こちらも創建800年紀念で、萬霊供養のようだ。
無量門をくぐって右側……建物は札所のようだ。
札所の右隣に「お幸身代わり地蔵菩薩」……江戸時代に生きた、一種の霊力をそなえたお幸さんのお墓が墓地にあるようで、通称は「水洗い馬込地蔵」とのこと。
札所前にお並びの「六地蔵」……
「日待供養塔」……高さ3.1mと大きい。寛永15年(1638年)に馬込村の人々が造立したもので、昭和30年(1955年)ごろまでは中馬込3丁目付近の梶原塚に建てられていたそうだ。『ある特定の日に同じ信仰を持つ人々が集まり、日の出を待ちながら一夜を明かす』江戸時代には盛んに行われた日待信仰だが、馬込では大正期まで習俗が続いていたとのこと。「月待」もあるが、日待の中で最も一般的なのは「庚申待」だろう。
「摩尼輪(まにりん)堂」の周りを一周してくると「洗心閣」という札のかかった建物。萬福寺の総合受付のようだ。
洗心閣の正面に「鐘楼門」がある。
摩尼輪堂を背にして……
陽炎
葱の皮 はがれしままに かぎろひぬ
室生犀星
室生犀星が旧居を移築する際、庭にあった石を二つ譲り受け、馬込と縁の深い作品をそれぞれに刻んだとのこと。
もうひとつ『笹鳴:笹鳴(ささなき)や 馬込は垣も まだらにて』はどこにあったのか。何が何でもまた行かねば。
※ 笹鳴(ささなき)=ウグイスの鳴き声
春の寺 (詩集 青き魚を釣る人 より・室生犀星)
うつくしきみ寺なり
み寺にさくられうたんたれば
うぐひすしたたり
さくら樹にすずめら交り
かんかんと鐘鳴りてすずろなり。
かんかんと鐘鳴りてさかんなれば
をとめらひそかに
ちちははのなすことをして遊ぶなり。
門もくれなゐ炎炎と
うつくしき春のみ寺なり。
「うつくしきみ寺」……室生犀星は萬福寺がお気に入りだったようだ。
どこからでも景色の良いお寺だった。
如来像が彫られた燈籠……
鐘楼門の下から洗心閣……
「鐘楼門」……もともと境内にあった鐘楼を、摩尼輪堂建立の際に移動することとなりこの場所に移した。普段上がることはできないが、年末には仮設階段を設置して除夜の鐘を撞(つ)くそうだ。
鐘楼門の扁額には「諸行無常 是生滅法 生滅々巳 寂滅為楽(しょぎょうむじょう・ぜしょうめっぽう・しょうめつめつい・じゃくめついらく)」と添えられていた。あらゆるものは無常であり生じては滅していく。生滅そのものを滅することができたならば静まっていることが安らぎである。涅槃経で言うところの悟りの姿なのかもしれない。
東の眼下に墓地と住宅……
鐘楼門から山門「慈眼門」へ……左側は墓地だが、右側に……
とても小さいのだが呼び止められて合掌……南無釈迦牟尼仏
石段脇は石塔群で埋め尽くされていた。
かすかに梅の香が漂う山門を失礼した私。直前に見つけた「磨墨塚」のお蔭で訪問できてとても良かった。
時すでに15時42分……急いでこんな道を帰路についた。
今日の「My First JUGEM」は……『思い違いだった……』