足跡(寺社)75・旧東海道品川宿あたりの寺社「真了寺・天妙国寺」……2019.3.8

なぜか数珠つなぎのように10ヵ寺を歩いた2019年3月8日のこと……

品川寺を後にして旧東海道を少し北へ進むと、大井町駅から仙台坂(旧仙台坂ではない)を下って海へと向かう道「池上通り」が横切るのだが、見上げると「あおよこ」と書かれた街灯が並んでいた。青物横丁の短縮形だろうが「あおよこ通り」とでも呼ばれているのかと思っていたら「ジュネーヴ平和通り」という別称があった。
 19世紀のパリ万博に出展した際に行方不明となっていた品川寺の梵鐘(昨日の日記)がスイス・ジュネーブの美術館で発見され、無事 品川寺に返されたことを通じ、品川区はジュネーブと友好都市提携を結んだ。その友好関係の証として、ジュネーブから「Avenue de la Paix(フランス語で平和通り)」の標識が送られ、地元の要望で「ジュネーブ平和通り」と名付けたらしい。青物横丁駅から東の運河に向かう池上通りの延長720mの区間をそう呼ぶそうだ。残念ながら、当日は「ジュネーブ平和通り」の標識・看板は見かけなかった。
 たまに目黒本町の「平和通り」にある柳屋蒲鉾店に行く私だが「平和通り」は国内にいくつあるのだろう。

馬込や千束あたりからも野菜を運び、江戸時代から大きな八百屋が軒を並べ大いににぎわったという風情は今はない。行ったことがないから定かではないがジュネーブの風は感じられない。平和に関するモニュメントもなかったと思うし、ごく普通の通りだった。昭和のレトロ感あるこのお店、今日も「奉仕と真心」で頑張っていらっしゃるだろうか。
 降る雪や昭和は遠くなりにけり (中村草田男

旧東海道に沿った脇道を入ると……

お寺っぽくはないのだが……

極楽寺」とあった。「本願寺派」「大谷派」ぐらいしか知らなかったが、同寺は真宗十派のうちのひとつ「真宗興正派」らしい。本山は京都市下京区にある「興正寺」で、寺号は順徳天皇(1197~1242年)によって名づけられたとされる。聖徳太子の事績にちなみ「正しき法を興し、さかえさす」(正法を興隆する)との願いが込められているそうだ。自民党議員さんたちにも、そうあるように願う。

極楽寺の程近くに、対照的に大きそうな寺院風が視界に入る。

かわった山門の「真了寺」……(品川区南品川2-7-25)

像さんらしきがお出迎え……左は象牙がない。

「光照山真了寺」……延宝元年(1673年)に、次に訪問した天妙国寺塔頭として創建された日蓮宗のお寺。境内に祀る諏訪大明神別当を兼ねたが、明治時代に寺社分離し、昭和21年(1946年)真了院を改称して現寺号となった。

本堂右は会館風……

境内のはじっこに石塔……塀の後ろは、かつて別当を務めた諏訪神社だと反省会で知ったが、この写真を撮って気付かなかった情けない私だ。裏道を入ったからスルーしてしまったが、郷土有形文化遺産の力石もおそらくそちらにあるのだろう。

本堂は高い所にあるから、下から手を合わせただけで失礼した。

裏路地を右左右左に歩いて旧東海道に戻ると……

「天妙国寺」参道入り口……(品川区南品川2-8-23)

山門は昭和30年(1955年)の建立で歴史は浅いが「しながわ百景」に指定されている。

山門の扁額「鳳凰山」……縦書きで緑は珍しと思ったが、山号の由来は「堂宇建立の際、天より鳳凰の羽が舞い降りてきた」という逸話によるものだと。

スッキリした境内だが、駐車場になっているようだ。

妙国寺「本堂」……弘安8年(1285年)、日蓮大聖人の直弟子・天目上人によって創建されたとのことで、寺所蔵の『御三代成之覚』には初代徳川家康が1回、二代秀忠が2回、三代家光が44回の宿泊が記録されているそうだ。顕本法華宗とのことだが、日蓮宗法華宗諸派の集約や分離の末に落ち着いたのだろうか。当所は「妙国寺」と名づけられていたが、のちに「天妙国寺」へと改称された。

現在の本堂は当山第21世住職日忍上人(1737~1755年)の時に再建されたものと云うから、彩色された彫刻も当時のものだろう。

囲みの向こうは庭園らしいが、門は閉まっていた。(土日だけ公開されているらしい。)
 木の脇にある石碑には『遠州流 元祖本松斎一得師』と書かれている。本松斎一得(ほんしょうさいいっとく)とは、江戸時代中期-後期の華道家であり浅草常林寺の住職。枝をたわめる技術に工夫をこらして浅草遠州流を興したらしい。
 蛇足ながら、同寺には日蓮上人や顕本法華宗の開祖・日什(にちじゅう)の文が有形文化財として保管されているとのこと。

「鐘楼」……現在の鐘楼は明治期以降に再建されたものだと。品川宿では除夜の鐘はいくつ聞かれるのだろう。

大きな石は「五重塔礎石」……五重塔には1本の心柱と16本の柱があり、それぞれが礎石の上に乗っていたと云うから、こんな石が17個はあったことになる。中央の一番大きな石が心礎(しんそ)と言い、心柱を支えていたと考えられるそうだ。
 室町中期(1450年頃)に建立された五重塔は、江戸城からも白塔紅楼の姿が見えたとされるが、慶長19年(1614年)の大風により倒壊。寛永11年(1634年)に将軍家光公の命により再建されたが、元禄15年(1702年)に焼失してからは再び建立されることなく、現在は礎石のみが残っている。
 蛇足ながら、五重塔のあった正確な場所は不明とのことだ。

妙国寺山門の先は旧東海道……海が見えたことだろう。
 ちなみに、同寺墓地も「しながわ百景」に指定されている。『浪花節中興の祖 桃中軒雲右衛門(1837~1916年)、剣の達人 伊藤一刀斎(一説に1560~1628年)等のお墓がある』と、しながわ観光協会のHPには書かれていたが私は存じ上げない。

品川宿場通り南会を北に向かった私だった。それにしても林立する寺院の数の多さには驚いた。

今日の「My First JUGEM」は……『足 長い……』