足跡(寺社)82・「正覚寺」と坂を歩いた……2019.4.13

天気が良いから「散歩に行って来られたらいかがかしら?」と、連れ合いの言葉に背中を押されてちょっとだけ歩いた2019年4月13日……ちなみに、モーニングは西小山のポエムでホットドックを食べたようだ。

とりあえず「別所坂」を目指して出発したのだが、駒沢通りの「けこぼ坂」を下ると正覚寺前……(目黒区中目黒3-1-6)

正覚寺山門……折角なのでちょことお邪魔した。

参道正面の「鬼子母神堂」は大改修中だった。安政4年(1857年)の建立らしい。伝教大師作開運子安鬼子母神のご尊像が祀られているとのことだが、大きな建物は祈祷所となっているのだろう。

参道右手、鐘楼を背にして像や碑が並んでいる。

伊達家4代藩主・伊達綱村の生母「三沢初子の像」……お墓もあるそうだが、仙台藩とご縁がある寺院らしい。ちなみに、初子は浄瑠璃や歌舞伎などで有名な「伊達騒動」の登場人物「先代萩の政岡」のモデルともいわれる人物とのことだが、私はまったく知らない。

「橋本牧場畜牛供養塔」……目黒区には明治中頃から昭和初期にかけて多数の牧場があった。この供養塔は、目黒四丁目あたりの3千坪ほどの敷地に大正12年(1923年)まで存在した「橋本牧場」の経営者・橋本寿吉氏が廃業時に敷地の片隅に建てたものらしい。

立派なお腹の布袋さんが、鬼子母神堂を向いて立っておられた。

鬼子母神堂の右手に「祖師堂」(手前)と「本堂」(奥)……
「祖師堂」には、11代将軍徳川家斉江戸城中で深く帰依していたという日蓮聖人木像が安置されているらしい。祖師堂扁額には「國柱法窟」とあったが、「法窟」とは仏語で修行の道場のことのようだ。
「本堂」は太鼓橋風渡り廊下で祖師堂とつながっている。元和5年(1619年) 日栄上人によって開かれた日蓮宗の寺院で、当初は碑文谷法華寺(現・円融寺)の末寺だったが不受不施問題の影響で身延山久遠寺末になったと。日蓮宗を貫いてこられた寺院だ。ちなみに、本堂の扁額は山号「実相山」だった。

寺務所……

本堂から東を向くと、右の改修中の鬼子母神堂の脇に鳥居が見える。

フェンスが邪魔をしていたので全景は撮れなかったが「瘡守稲荷大明神」……「瘡(かさ)」は「皮膚にできる腫れもの、きず、かさ」らしいから、それらを治癒させてくれるのかもしれない。ちなみに「瘡」は「梅毒の俗称」ともあったから、ペニシリン系抗菌薬がなかった時代には、おすがりする庶民は多かったことだろう。

お稲荷さんの右のお堂には、柄杓が刺さった水の汲まれたバケツが置かれていた。

妙法寺の浄行様と似ていらっしゃるから、おられたのは「浄行菩薩」だろう。煩悩を洗い流してもらいたかったが、狭かったので諦めた。

稲荷と淨行さまの後方に「実相会館」……

実相会館前から境内を振り返る……

山手通りに面した山門から失礼した。

正覚寺を後にして山手通りを渡り、目黒川に架かる「田楽橋」……

二又やクランク路を北東に向かうと坂標がある。坂を下ったところに別所と呼ばれた地名のところがあったから「別所坂」だとのこと。
 では、ここで言う「別所」と呼ばれていたのが何処かと言えば、上目黒村の字名の一つで、現在の青葉台一丁目、上目黒一丁目、中目黒一丁目にあたる一帯とのこと。別所の地名は他所にもあるらしいが、集落である本村(もとむら)に対して追加開墾を許された土地を意味する地名のようで、派生して「行き詰まりの場所」を指すとの説もあるようだ。従って、この辺りは遅れて開墾された地域なのだろう。

急斜面を切り割った、いわゆる切り通しの別所坂だが、だんだんきつくなる折れ曲がった長い坂の出口の左に……

「別所坂上庚申塔」がある。1665~1764年のもので、6基中4基には青面金剛と三猿などが彫られていた。
 坂を上り切った場所に『目黒の新富士新富士遺跡』とされる掲示がなされていた。『坂上は富士のながめの良い所で、えぞ・千島の探検で知られた近藤重蔵が文政2年(1819年)に新富士・近藤富士などと呼ばれた築山を造り、目黒元富士とともに江戸名所のひとつとして行楽客に親しまれたと言われている。この築山は昭和34年(1959年)まで、その形を残していたが取り壊された。』とのこと。遠景を望める場所もあったが、今日は写真は省略。

「防衛装備庁 艦艇装備研究所」の広い敷地を回り込むと「新茶屋坂通り」の坂上にでる。南西に向かう新茶屋坂を、連れ合いと一緒に下ったのは2009年3月11日だった。お通夜に行って、帰りに焼き肉屋に寄ったことはしっかり覚えているが、時のたつのは早い。

新茶屋坂の左側の路を歩くと、「茶屋坂」の入り口(写真右側)。

勾配10%の細い路が続く……江戸の初め、この辺りの眺望のよいところに、徳川三代将軍家光が目黒筋遊猟(たぶん鷹狩り)の帰りにしばしば寄った1軒の茶屋があった。茶屋の主人彦四郎の素朴な人柄を愛した家光は「爺、爺」と話しかけたので、いつしか「爺々が茶屋」と呼ばれるようになったとされるが、現在はその正確な場所は分からないそうだ。

クネクネしながら下って行く茶屋坂。

坂標はあるが、この場所は坂下ではない。まだ少し続くが、今日は写真は省略。

「茶屋坂の清水」なる碑の置かれた「茶屋坂街かど公園」などを歩き、目黒川に架かる「目黒新橋」から桜を眺めた。

目黒通りの権之助坂を下り、今度は大鳥神社から多摩大目黒高校に向かう「金毘羅坂」を上る。

目黒通りの「目黒寄生虫館」を曲がって南に歩くと、不動公園の先からクネクネ下り坂。ここも傾斜10%のようだ。

坂下に坂標がある。S字状に三つに折れているから「三折坂」だと。

私よりご高齢の方が、やっと下りてこられた。目黒不動のふもとだが、この辺りの方が目黒通りに出ようと思ったら最短コース。下りは良いが、上りは辛いな~。ある日、連れ合いは独りで歩けたようだ。
 ということで、寺院より坂の方が多くなってしまったが勘弁してもらおう。

今日の「My First JUGEM」は……『雪だるま作った……』