足跡(寺社)112・築地本願寺……2019.12.18

干し数の子を買いに築地場外に行った2019年12月18日のこと……

築地本願寺」(中央区築地3-15-1)……初めてお目にかかったが、すばらしい建造物だった。浅草近くに創建されたが「明暦の大火(1657年)」で焼失してしまう。再建のため江戸幕府から与えられた土地が現在の場所。土地と言っても当時は海上であり、埋め立てて土地を築き本堂を建立したことが「築地」の名の由来だ。南無阿弥陀仏……
 駅からこの広場を横切るだけのつもりだったのだが、建物正面の新大橋通り側が私を呼んでいた。

親鸞聖人」は江戸城に向かってお立ちだ。

手前の丸いのは「台湾物故者の霊」と書かれていた。台湾から引き揚げられずに亡くなった在留日本人の追悼碑。

「陸上交通殉難者追悼之碑」……
 右の碑には「名誉総裁 三笠宮崇仁親王」とあった。立派な方でした。
 左の碑文は『文明は 尊いものか 惨めなるか エンヂンの音 耳すまし 和南』昭和44年(1969年)に建てられたようだが、当時から交通事故は多かったのだろう。もっともっと事故が減るように、歩行者としても気を付けたいが、最近の自動車はエンヂンの音、聞こえないからな~ ママチャリや電動キックバックにも要注意だ。

いくつもの石碑が並んでいたので、せっかくだから駅方向に戻りながら拝見した。

「間新六(はざましんろく)供養塔」……現在の塔は、焼失したので天保5年(1834年)に再建されものた。赤穂義士の墓は高輪泉岳寺にあるが、新六は義兄中堂又助により本願寺に埋葬されたと。彼の供養墓は泉岳寺にもあるのに、本願寺に葬られた理由は、檀徒であったのか、生前の意志によるものなのか不明とのこと。

江戸時代後期・浄土真宗本願寺派の学僧「大瀛(だいえい)和上」の墓らしい……1797年に「三業帰命説」なる教義が世に出された折、「横超直道金剛錍」などを著して反論した和上とのこと。なにやら難しいので解説はやめるが、その後、幕府から「三業帰命説」は異端であるとの審判が下され、大瀛和上の考えが認められたそうだ。

「森孫右衛門供養塔」……二代将軍 徳川秀忠の時に、漁猟の許可をたまわり33人の漁師が将軍の食膳に供する魚を献上した。寛永年間(1624~1644年)に百間四方の土地をたまわって島を築き、正保元年(1644年)2月に「佃島」と名付けたと……佃島を作った人だということだけ理解した。
 ※ 一間は1.82mだから、百間四方は33,124平方メートル……新国立競技場敷地面積(113,000平方メートル)の30%程だから、当時の佃島は小さかったのだろう。

手前は「土生玄碩(はぶげんせき)の墓」らしい……江戸時代後期の眼科医で、12代将軍・徳川家慶の眼疾を治療し、シーボルトから眼病治療法を教授されたそうだ。

酒井抱一(さかいほういつ)」という人の墓らしい……37歳で出家するが、その後(寛政年間後半ころ)尾形光琳の画風に傾倒し、琳派の画風に諸派の技法を取り入れた江戸琳派を完成させたと。代表作は「光琳百図」「四季花鳥図屏風」「夏秋図屏風」などらしい……

晴海通りと波除通りとの交差点に看板がる。ちなみに、晴海通りを1ブロック歩くと勝どき橋。

看板は「軍艦操練所跡」……『ペリーによる黒船艦隊の来航後、西洋式海軍の必要性に迫られた江戸幕府は、安政4年(1857年)4月、旗本や御家人、諸藩の藩士等から希望者を集めて、航海術・海上砲術の講習や、オランダから輸入した軍艦の運転を練習させる目的で軍艦教授所(後の軍艦操練所)をこの地にあった築地講武所内に創設しました……』
昔はオランダから買っていた。今はアメリカばかり……

今日の「My First JUGEM」は……『池渡りはまだだった……』