足跡(寺社)54・大蔵大佛と坂歩き……2019.1.30

世田谷区岡本を皮切りに世田谷区の坂道を歩いた2019年1月30日のこと……

水神橋から仙川沿いを上流に歩き、大蔵5丁目「中之橋」あたりを過ぎると……

仙川に面した左手に地蔵尊と2基の庚申塔……まだ今ほど関心がなかったので、手だけ合わせて失礼。年代等は確認しなかった。

仙川の対岸に鳥居が見えた。砧公園に隣接する大蔵運動公園の敷地内だが、Googleマップには「武蔵御嶽神社」と標されていた。由緒はまったく分からないが、左に石の祠が見られる。かつては愛宕神社も鎮座していたらしいが、現在は大蔵氷川神社に合祀されているとのこと。あぁ、あれがそうだったのねと私……

30棟ほど建っている東京都住宅供給公社大蔵住宅の一端が見えてくる。4期に分けての建て替え整備で、当日の前年から解体工事が着手されたそうだ。

世田谷通り目前で、右に何やら発見した。

世田谷通りを左折して、すぐ左の路地に「妙法寺」の看板が見えてしまった。杉並区堀之内の妙法寺には毎正月出向くからご縁を感じて進んでみたら……

路地の出口近くにお地蔵さん……昔から、すぐ近くにある砧小学校に通う子供たちのことを砧っ子と呼び、通学する砧っ子たちを見守っているから「砧っ子地蔵」なのかもしれない。今年の夏、砧小学校では「第36回砧っ子夏祭り」が開催されたようだ。コロナ禍だったから何年振りなんだろう。来年も出来ることを願おう。

砧っ子地蔵の前を回り込むと「東光山妙法寺」山門(世田谷区大蔵5-12-3)……この山門(法華門)は、碑文谷法華寺(現在の円融寺)の庫裏の門として1615年以前から立てられていたもので、明治30年(1897年)に地元の角田氏が金200円で買い取り、昭和30年(1955年)代に堀之内妙法寺へ奉納した。その後いたみも激しく堀之内での再建が難しい状況となり、縁あってこちら東光寺妙法寺に移築された。復元再建は昭和61年(1986年)5月とのことだが、転々としながらも400年以上の時を生きている。
堀之内妙法寺と縁があるのだから、日蓮宗寺院だ。

左の柱に「おおくら大佛」の札がかけられているように、同寺の通称は「おおくら大佛妙法寺」のようだ。堀之内妙法寺と混同しないようにだろう。

「本堂」……約350年前に創建されたそうだが、当時、隣村・宇奈根にあった常光寺(じょうこうじ、1585年頃開山された)に、地域住民が頼みこんで同寺を作ってもらったそうだ。発起人は大蔵本村の村長・安藤家と言われており、その安藤家の旧住宅は世田谷の文化財に指定されている。安藤家の旧所在地は世田谷区大蔵6-2だが、現在は区立次大夫堀公園民家園(喜多見5-27-14)で存続しているようだ。
 ちなみに隣村「宇奈根」というのは、岡本の富士見坂上から鉄塔が見えたあたり。「吉祥院」や「鎌田天神社」など、隣接する「蒲田」地区は歩いたが宇奈根には踏み込んだことがない。同寺からは直線で南へ1.2㎞程の場所だが、もう少し鍛えないと行かれそうもない。

本堂の扁額「感応法閣」……杉並堀之内妙法寺・祖師堂の扁額もこれだった。「お祖師様の胎内」や「仏と人の心が通じ合う」などを意味するようだが、次回訪問時に連れ合いに聞いてきてもらおう。

本堂に向かって左に……

何処の観音さまも美しいお姿だ。

本堂右手の立派な石の後方が客殿・寺務所だろう。ベンチに灰皿……ありがたやありがたや……

わずかだが、浄財を納めて、南無妙法蓮華経……

本堂裏の墓地の奥に「おおくら大佛」……ブロンズ製で高さ8m、重さ8tの巨大な大佛だが、なななんと1回転するそうだ。朝9時から夕方5時までは本堂の方向(この南向き)で、夕方5時から翌朝までは反対の世田谷通りに向かうように台座が回ると。要するに、一方だけでなくあらゆる方角の安全や平和を祈念しておられるのだろう。夕方に訪問すれば回転する姿を拝見できるが、私には叶わない。

大佛の足元にあった。

光背に四菩薩を配した久遠実成(くおんじつじょう)の本佛お釈迦様を現しているとのこと。
 ちなみに、久遠実成の本佛とは、法華経の一番ありがたい佛さまで、佛の命が過去から現在、未来へと永遠に続くことを表し、その佛さまを拝む人類の生命、地球上のすべての生きとし生けるものの命が永遠であることを説いたお釈迦様の姿だとのこと。しかし、美しいお姿でありました。永遠の命を持つお釈迦様に合掌……

帰ろうと思ったら、山門手前に鳥居があった。

扁額に「石井戸稲荷大明神」とあった。昔、近くの大蔵団地辺りの崖からは湧き水が出ていて、石から水が出るという事と、この地域に住んでいた石井氏の名前両方を兼ね合わせて「石井戸」と呼んだらしい。

凛々しいお狐様……大佛さまの足元と同じ文言があった。

世田谷通りを西に歩き、成城通りの「病院坂」を上って途中で振り返る。坂上まではカーブしているから上りきると交差点は見えないので。
 ちなみに、信号から先は「多摩堤通り」と名称が変わる。ついていけば京急鎌田に行かれる。おっと、宇奈根の鉄塔群が写っていた。多そうに思えたら、宇奈根を通過する送電線は「川世線」と「千南線」の2系統あるらしい。宇奈根は鉄塔の町といっても良さそうだ。

病院坂を上ると国分寺崖線上の「成城三丁目緑地」があるが、緑地の崖っぷちにこんな坂がある。「ヘビ坂」とされるように、この入り口から入り、少し進むとヘアピンのごとく180°方向転換する。その後クネクネしながら坂下のマンションの一部にたどり着く人口の坂道。高低差は11mほどのようだが、往復するとやはり足にきた。坂上にある区立明正小学校の児童たちも使うのかもしれないが、若いから彼らは平気だろう。

世田谷区成城3丁目13と15の間に、ほぼ南に下っていく「お茶屋坂」……江戸時代初期にこの地域を治め、幕府のお目付け役を務めた喜多見重勝という方の茶室がここにあったらしい。遠景の眺めを楽しみながらのお茶……さぞかしおいしかったことだろう。

二段どころか三段・四段グリーンのような坂だったが、平気で上っていく小学生の女の子の姿があった。若いって素晴らしい!と思いつつ、私も負けじと坂上まで戻った。電動アシスト自転車なら平気平気なんだろう。

「成城三丁目なかんだの坂市民緑地(世田谷区成城3-9-3)」なる看板を見かけたので立ち入ってみた。国分寺崖線に残る貴重な斜面林を、幾度も180度折り返して下りていく坂道。

折角なので下まで行った。都市ではあまり見られなくなった山野草が自生しているらしいが、わき見をしながら歩ける場所ではない。ちなみに、昔はこの坂下は「中野田(なかのだ)」という田んぼだったらしいが、今は面影はなかった。

地点名は「富士の見える橋」となっていて、定点は示されていない。

小田急線に架かる、プレートのあった「不動橋」から西の眺め……野川を越えて喜多見駅は目前だ。天気が良ければ、そのずっと先に富士山が見えるはず。私のすぐ後方にある「成城の富士見橋」も富士見百景らしい。「成城の」と付け足しているのは、上野毛にある五島美術館脇を走る大井町線に架かる「富士見橋」も百景であり、区別するためのことだろう。
 蛇足ながら、写真右方向には「喜多見不動堂」があったようだ。「不動橋」でピンとこなかったことが情けないが、坂歩きで疲れていたから仕方ないだろう。

今日の「My First JUGEM」は……『ドウダンツツジの紅葉……』