足跡(寺社)182・旗岡八幡神社……2020.5.5

2020年5月5日の子どもの日のこと……

東急大井町線荏原町駅前の法蓮寺を出て、仲通りを少しだけ上ると……

「旗岡八幡神社(はたがおかはちまんじんじゃ)」……(品川区旗の台3-6-12)
「旗岡八幡神社鎌倉道」として「しながわ百景」に選ばれている。参道前のこの道が鎌倉道なのだろう。左の馬込方向に歩くと、直に「天明三年(1783年)銘石造道標」「天保二年(1831年)銘道標」に会える。昨年12月に、唯一、連れ合いと散歩をした折、小室商店の脇の喫煙所で私が一服している間に天明三年の道標は連れ合いが眺めていた。

存在感充分な大鳥居……真東から真西へ向かう参道。

文化5年(1808年)奉納の狛犬……背後にあるのは空襲を免れたという「絵馬殿」だが、柵で囲われていて絵馬はかすかにしか臨めなかった。

200年以上も前から守っている狛犬。背後は北参道の鳥居。

社殿前にも新しい狛犬……長元元年(1028年)、上総・下総で起こった平忠常の乱を治めるべく、同3年(1030年)に朝命に奉じた甲斐守源頼信公が同地へ赴く際、一族郎党と共にこの地に宿営した時、霊威を感得して源氏の氏神たる八幡大神を奉斎し戦勝を祈願したのが発祥とのこと。

御祭神は「誉田別命 ほんだわけのみこと(応神天皇)」「比売大神 ひめおおかみ」「息長帯比売命 おきながたらしひめのみこと(神功皇后)」

鎌倉時代(1185~1333年)中期、当時の領主となった源氏の庶流荏原左衛門尉義宗公(1231~1285年)は八幡大神を崇拝すること厚く、まず社殿の造営を志し、源家重代の守護神としてのみならず地域の人びとに鎮守としての御神徳の発揚に努力された。さらに、日蓮宗に帰依し朗慶上人と称した義宗公の二子徳次郎は、その館に法蓮寺を開山し当神社の別当として守護に当たったと……(同社HPより)
現社殿は昭和39年(1964年)に造営されようだ。

社殿左に新しく見える神輿蔵……おっと自撮りしていた。

神輿も新調したのだろうか。

ピカピカかつ丁寧・精巧……

神輿蔵の左に耕地整理記念碑……

昭和63年(1988年)造営の新しい社務所だが、昭和20年(1945年)5月の空襲がなかったら、今どんな姿を見せてくれたことか……

社殿からみた境内……左に社務所、右に神楽殿
 江戸時代には2代将軍秀忠をはじめ多くの武家の崇敬を受け、毎年2月15日には各地から集まった武士たちにより弓の競射が行われたそうだ。

いつの時代の建築かは不明だが、戦禍を逃れたのかもしれない。良き姿の神楽殿にはエアコンの室外機が置かれていた。

手水舎……後方に神楽殿と社殿

柄杓を使わず、素麺流し風だったのはコロナ対応だったのかもしれない。

古井戸なのだろうか……

絵馬殿……昭和3年(1928年)に造営され、完成時には参道の北側(おそらく現在の社務所側)にあったが、旧社殿が空襲で焼失したため、終戦直後に曳家(ひきや・そのままの状態で移動)して昭和37年(1962年)まで仮社殿の役割を果たした。同年、現社殿の造営着手に伴い、この場所に二度目の曳家をされて残っている。戦災を逃れた貴重な神社建築として、平成25年 (2013年)国より「登録有形文化財」として登録されている。

文化財登録の絵馬などがあるらしいが、とにかく鉄柵に阻まれて拝見できなかった。もっとも、重要な絵馬は社務所に保管されているだろうが……

北参道から失礼することに……

表参道の鳥居とは対照的に北参道は木造の鳥居……木目が美しかったから朱色に塗らないのかもしれないが、こちらから訪問したら「小さそうな神社」と思ったことだろう。

旗岡八幡の北参道を出ると……立派な石燈籠の後ろに

これまた立派な堂宇……個人の所有なのでしょう。

「野村肥後守源綱定」とあるが、私にはわかりません。それでも合掌してきた。
 飲まず食わずで東馬込から歩いた時に、旗岡八幡も連れ合いを案内したが覚えているかしらね。

今日の「My First JUGEM」は……『今朝はできた草むしり……』