思い返せば、寺社というより「古墳」を辿った2019年11月29日のこと……
九品仏の紅葉調査をしてから寄り道をして御岳山古墳までやってくると、目黒通りの反対側に等々力不動尊……
以前にも訪れたが、折角だから横切ってみることにした。参道左側には見晴らし台がある。(世田谷区等々力1-22-47)
吹き流しが何なのか? 私は知らない。
真言宗智山派の寺院「等々力不動尊明王院」の本堂は意外にこじんまりしている。正式名称は「瀧轟山(りゅうごうさん)明王院」で、等々力満願寺の別院とされている。玉川八十八ヶ所霊場の33番札所。(満願寺へは2020年1月9日に訪問した)
手水盤からは水があふれていた。もちろんコロナ禍前だから柄杓もあった。
手水舎から渓谷を見下ろすとこんな感じ……渓谷で紅葉らしい紅葉はここぐらいだった。
渓谷に向かって石段を下りる。
「たきのみち」と言うのだ。
石段を少し下りると右側の斜面に何やら3つほど祠が点在していた。
右手前には「おカエル様」がお座りになっていた。
中ほどに「神変大菩薩」の提灯……
修験道の祖とされる「役行者」がお坐りになっていた。
等々力不動尊は、真言宗中興の祖である興教大師が夢のお告げにより開かれた霊場と云われる。あるとき、興教大師が信心する役行者作の御不動様が夢に現れ、関東に結縁の地があると告げる。その御不動様を背負って関東に入ると夢と同じ渓谷があり、錫杖で岩をうがつと玲瓏(れいろう)と瀧が流れ出したので、御不動様を安置したのが等々力不動尊の始まりとされている。従って、興教大師と縁のある役行者が祀られているのだろう。
※ 興教大師は嘉保2年(1095年)にお生まれになり、亡くなったのは1143年のようだから、等々力不動尊の歴史も古い。
「不動明王」は一段と高いところに祀られていた。石段があるわけじゃないので登りにくかったが、回り込んで可能な限り近くでご挨拶した。花を交換する方がお怪我をめされませんように。
たきの道を下ると「不動の滝」……
二カ所の龍の口から水が流れ出ている。上部にお立ちのお不動様のご尊顔が入っていなかった。
【附けたり】(2017年4月24日の写真)
滝の上の不動明王……2017年1月からの寺社をリライトしだしたが、なぜかこの日の訪問は抜けていた。「稚児大師堂」や「稲荷堂」などもあったが、今日は載せない。
「利剣の橋」を渡って……
等々力渓谷を少し上流に進むと左に石段……
長い長い石段だったので、以前は断念したからこの日は頑張った。
野毛1丁目の高台に武蔵小杉方面が一望できる一等地……私の後ろは国交省の宿舎が何棟も建っていた場所だが、建物は取り壊され樹木だけが荒れ放題になっていた。あれから4年半、どうなっているのか。
玉川野毛町公園内を横切りながら「野毛大塚古墳」を眺めた……5世紀初めに造られた全国でも最大級の帆立貝式前方後円墳。墳丘の全長は約82mで、後円部は直径が約68m、高さ約10m、前方部は前端の幅約28m、高さ約2mで、後円部に比べて極端に小さく低いことが特徴とのこと。しかし大きかった~ 上っている人もいたが、私は遠慮した。情けないが、結構へばっていたから。
第三京浜を渡らないとならないので、仕方なく歩道橋を頑張った。下り南西方向の眺め。
環八にそって歩いても良かったが、いつも裏通りの私は静かな住宅街を歩くと……
「覚願寺」(世田谷区上野毛2-15-15)……お参りさせていただきたかったが、境内では幼稚園児が走り回っていたので断念した。
門前には、地蔵尊、庚申塔、馬頭観音と奥は[牛馬之墓]とあったので供養塔だろう。
自性山聖徳院覚願寺……真言宗智山派で玉川八十八ヶ所霊場の三十六番札所。
創建年代は不詳らしいが、文禄3年(1594年)の『武州荏原郡世田谷領上野毛郷御縄打屋敷帳』には覚願寺の名が見えているため、その頃にはすでに存在したようだ。院号が「聖徳院」と称されているのは、かつての本尊は聖徳太子像だったからだと。その後、大日如来像が本尊とされ、脇仏として弘法大師と興教大師が祀られているとのこと。真言宗の開祖と復興に努めたお二人を従えて、大日如来も心強いことだろう。
上野毛通りを越えて……
「五島美術館」……正門到着
正門内側の紅葉は綺麗だった。この後、庭園内をじっくり拝見して帰宅したが、よく歩いた日だった。
今日の「My First JUGEM」は……『葉牡丹(ハボタン)の花……』