北品川を歩いた2021年1月31日の最後の訪問先……
本照寺を後にして、山手通り・品川図書館前の信号を渡る。前方の駐車場奥には2018年に訪問した「南の天王さん」と呼ばれるとおり品川の南側を守る「荏原神社」が鎮座している。北側の鎮守が「北の天王さん」と呼ばれる「品川神社」だと当時学習したが、2年以上経ったこの日にようやく訪問した私。お寄りする気持はあったが、結構疲れていたので当日の荏原神社参拝はパスしていた。
路地を入ると……
すぐ正面に目黒川が横切って流れる場所……
「稼穡稲荷神社(かしょくいなりじんじゃ)」(品川区北品川2-32-3)……二基の鳥居と、ご神木(品川区指定天然記念物のイチョウ)
限られたスペースなので、L字の参道……
大切に維持されている社殿は真東を向いていた。別名を「荏川稲荷」ともいい、御祭神は「宇迦能比売命(うかのひめ)」と説明書きにあったが、「宇賀之売命(うかのうりのみこと)」「倉稲魂命(うかのみたまのみこと)」など様々な呼び名がある。
扁額……『稼は植える、穡は収める、とりいれを意味し、農業の意味である。稼はカセギともよみ、かせぎためると読み替え商売繁盛の神として命名した。(一般財団法人 六行会)』
『稼穡(カショク)とは、穀物の植えつけと、取り入れ。種まきと収穫。農業。』だとデジタル大辞泉にも載っていたが、まったく知らない言葉だった。小泉コメ担当大臣はご存じだろうか。
『……この稲荷のはじまりについては、こんな話が伝わっている。薩摩屋敷から六行会がこの土地をゆずりうけたとき稲荷社は北東の旧目黒川の方にあった。そこでそんな隅にあったのをたいそう気にしていた六行会の生みの親ともいえる山本伴曹は、ある夜狐の嫁入りの夢を見た。山本伴曹は荏原神社の神主であった鈴木播磨に頼んで、伏見稲荷さんを分請したというのである。そしてそれは文久元年(1861年)という。……』
旧目黒川の河川工事が行われ、流れを変えた現在も目黒川の脇に鎮座している。
「六行会(ろっこうかい)」は、とっても有意義な活動をされてきた。
南品川宿と呼ばれ東海道第一の宿場として賑わっていた幕末の頃、住民は宿場の仕事が忙しく、自分の家業に従事することもままならない。それを軽減して凶年や不慮の災害時に対応できるよう、南品川宿の地主たちが基金の積立てを始めたのが六行会の初まり。
明治維新とともに宿場の制度が廃止になると、品川宿の人たちはそれから解放されるが、折角基金で作った家作からの収益金も無駄になる。そこで、これを有益に使うため新しく始まった教育制度を助成することにした。
大正の末に、町人たちの集会のための「荏川町倶楽部」をつくり、この中に当時東京府下ではじめて「荏川町文庫」という図書館を併設するなど公益事業を展開。
昭和3年(1928年)に、図書館を倶楽部から独立させ、後に品川町の東京市への併合記念として寄付し、現在の品川図書館に続いている。
平成6年(1994年)、本会設立150年を機して、地域の文化・教育の発信点としてに寄与したいと願い、品川区と協力して新しい総合ビルを建設、「区立図書館」と「六行会ホール」ならびに集会施設「荏川倶楽部」を新設し、平成8年(1996年)、東京都教育委員会から寄付行為の変更の許可を得て新しい展開をしてきた。(一般財団法人六行会HPより抜粋)
ちなみに「六行」は会の精神で『人の勤むべき六つの行い「孝・友・睦・姻・任・恤」を表しています。親子愛(孝)にはじまり、兄弟愛(友)夫婦愛(睦)親族愛 (姻)隣人愛(任)そして人類愛(恤)まで、拡げていこうというもの』だそうです。
御神木の雄イチョウは、幹周り4.1m、推定樹齢500~600年の巨木だった。樹高は23mらしいから、目黒川の対岸、ちょうどホームラン地蔵を祀る海徳寺裏門あたりから美しい姿が眺められることだろう。
ここでも乳根……背後が六行会総合ビル
当日は気付かなかったが、左の屋根に「波型の瓦」が乗っていた。目黒川の氾濫除けかもしれない。
目黒川にそって新幹線高架下まで戻ってきた所で「これ、何だろう?」と思い撮ったが、地下に溜まった水を川に放水するためのものかもしれない。しかし、いつもつまらないものを撮っている。
川沿いを行きたかったのに、歩けないから迂回……
迂回してから方向感覚を頼りに歩いたら、光村ビルの敷地に鳥居が見えた。
稲荷社のようだ。
商売繁盛を祈願して光村さんが祀ったのだろう。
ここでバッテリーの残りがわずかだと表示が登場。もう一ヵ所寄りたかったが写真が撮れないので断念して帰路についたが……
朝から何も口にせず出かけたからお腹空いていたので「田丸」に吸い込まれ「チャーシューワンタン麺」を食べて帰った私だった。最近 食べてないから近いうちに行ってみよう。
今日の「My First JUGEM」は……『自然にドライフラワー』