天気が良かったので、品川区の寺社を探しに出かけた2020年6月17日のこと……
行慶寺の西側を南北に走る宮前商店街の道を北上する。北上と言っても下り坂になるが……
「宮前坂」……戸越銀座商店街から八幡神社へ向かう道だからだが、宮前通りとも呼ばれている。
戸越銀座商店街を越えてから今度は少々上ると変則交差点……何処へ行ってもこのような変則交差点には悩まされる。
近くの路地に入いると突当りの左に……
見つけたが、こんな所によく行くよな~ と住宅街探検隊の私は自画自賛。
「正一位 周防稲荷大明神」とある。社号碑は昭和55年(1980年)7月の奉納だった。
手水盤もしっかりと置かれていた。使う使わないに関わらず、あって欲しい。
「正一位」はどこにでもあるが、鎌倉時代に後鳥羽天皇が京都伏見稲荷を訪れた際「分霊先でも正一位を名乗ることを許可」したことから広がったとされる。もっとも身近な神社といえる「お稲荷さん」だが、現在は全国に30,000社ほどあるらしい。
詳細はまったく不明の周防稲荷大明神だったが、地元氏子さんたちの篤い崇敬を5基の鳥居が示していた。(品川区戸越1-23)
右手の周防稲荷から写真の方向・東にクネクネ進む。
戸越銀座商店街と並行して北側を走る住宅街の道に「わかば児童遊園」……コロナ禍ではあったが、そこそこ賑わっていた。天気がよかったし、近隣にお住いの子育て家族にはありがたい公園です。
少し進んで進行方向の右(南)の眺め……区立大崎中学校を背にしての写真だが、戸越銀座商店街に向かって下り、さらにその先は上りになる。下って上れば突き当りは戸越公園の表玄関・薬医門に着く。まっすぐだから連れ合いも迷子にはならない。独りでは歩くことはないだろうが……
蛇足ながら、かつては戸越銀座には川が流れていたそうだから低くなっていて当然だが、私の後方には目黒川が流れている。両側が二つの川に削られてこの台地が残ったのだろう。戸越銀座と大崎駅間の細長い台地だ。また、かつてこの地域は「三ツ木」と呼ばれていたらしいが、現在その古い地名を残しているのは、このあと訪問した貴船神社に隣接する「区立三木小学校」ぐらいかもしれない。
私が子どもの頃「唐ヶ崎」と呼んでいたエリアは、その後「中央町」になった。なぜ中央なのか意味不明だが、現在は「唐ヶ崎通り」と電波塔のある「NTT唐ヶ崎ビル(旧唐ヶ崎電話局)」にしか名残はない。
ワクチンの研究や開発製造をする北里研究所飼畜部が「家畜の飼育に適さなくなった」として千葉県へ移転した跡地に、市外電話の発着信の中継基地・唐ヶ崎電話局が建設されたのは昭和41年(1966年)だったが、住居表示実施により「中央町」となり「唐ヶ崎」の名が消えたのは同年だったようだ。唐ヶ崎という地名は徳川時代から存在していたとされるが、歴史を物語る地名を簡単に変えてしまう行政の考えが私には理解できない。
坂は下らずに、豊町(右)と西品川(左)の間の路の角に偶然出くわした。
三角地に鎮座している。地元の住民はよく承知している古道の道筋……
「西品川三丁目石造庚申供養塔」(西品川3-11-15)……わずかな向きの変化や移動はあるが、建立以来の位置から大きくは動いていないと。昔は「三ツ木庚申塔」と呼ばれたかもしれないが、現在の名前は味気ない。
三猿を従え、天邪鬼を踏みつける六臂の青面金剛だが、左手には「ショケラ」をぶら下げている。延享4年(1747年)造立と読めるが、277年前に江戸時代の人々も手を合わせていたと思うと感慨深かった。合掌……
脇に置かれた角柱型の「紀念碑」には地元でのかかわりや経過が彫られている。
『此庚申様ノ御尊像ハ今ヲ去ルコト百八十五年前延享四年三月吉日地元有志ノ建立ニ依ルモノナリ 然ルニ奉安ノ御堂久シキ歳月ヲ経テ荒廃セシニ依リ昭和六年九月当昭明会役員協議ノ上其再建ヲ企テ多数信者ノ奉納金ヲ以テ工事ニ着手シ昭和七年五月二十五日落成セルモノナリ 昭和八年十一月吉日建 品川区西品川三丁目 昭明会』(別にアップで撮ってきたので書き写してみたが、誤字脱字があるやもしれない。)
庚申様の御尊像は185年前の延享4年(1747年)3月に地元の有志が建立したものだが、お堂が幾年月を経て荒廃してしまったため、昭和6年(1931年)9月に品川区西品川3丁目の昭明会にて役員が協議して再建を計画。奉納金を収集して工事に着手して昭和7年(1932年)5月25日に落成した。そして、昭和8年(1933年)11月に、この紀念碑を建てたと。
左が碑文谷道……品川宿から碑文谷円融寺(旧・法華寺)や目黒不動へと、多くの参拝客を導いた道古道だった。
今日の「My First JUGEM」は……『新登場の雑草……』