荏原七福神なるものがあることを知って、3つ目の法蓮寺など品川区旗の台あたりに出かけた5月5日のこと…
旗ヶ岡子育地蔵尊から法連寺の「恵比寿さん」に挨拶をし、隣の旗岡八幡神社から仲通りを北上して中原街道に出た。
バーミヤンの外階段に発見……
これは行かねばと思ったが、矢印方向はこんな感じで突当りまで行ったが何もなかった。引き返してこの写真のチャリンコ前を左折した。蛇足ながら1階のバーミヤンの駐車場はガラガラ。コロナ禍で休業していたのかも知れない。
微かに鳥居の断片が臨めるが、こんな所はまったく気付かない……
「平塚の碑」と書かれていたので、碑だけがあるのかと思ったら鳥居がお出迎え……
「平塚の碑」……『古くは鎌倉へ通じる古道で、江戸時代には東海道の脇街道として往来の盛んであった中原往環(中原街道・相州道)沿いに「平塚」と呼ばれる大きな塚があった。
伝承によると、後三年の役(1083~87年)において八幡太郎 源義家を助けた弟の新羅三郎 源義光は奥州からの帰途、この地において夜盗に襲われ多数の配下を失った。その霊を祀ったのがこの塚の由来とされている。
時の流れとともに、この塚は取り壊されたが、地域の人たちによって昭和27年(1952年)3月「平塚の碑」が建立され、伝承は受け継がれている。(品川区教委看板)』……戦からの帰りで疲れていたのだろうが、盗賊に襲われるとはとんだ災難だった。しかし物騒な時代だった。
昔、今の環六と淡島通りの交差するあたりに出没したのが道玄太郎という山賊……道玄坂は、物色するために彼が登った松の木を道玄物見の松といい、その名からついたと云われる松見坂も以前行った。
いつしかなくなってしまった「平塚」だが、太平洋戦争のあと、そのあたりを掘り起こしたところ、鎧(よろい)や兜(かぶと)、刀剣などの残片がたくさん見つかったようだ。同時期に、近くに住む人たちがたびたび不吉なことにあうので、伝説を知る人の間で「塚が失われたことによる祟(たたり)ではないか?」という話になり、現在地にこの碑が建てられたとのことだ。毎年5月に慰霊祭が行われているようだが、何日かは不明。
一応 きちんと玉垣で囲まれていた。
中原街道の平塚橋交差点……鮫洲大山線を越えて、先にある水色の歩道橋近くに向かう。
「平塚橋の碑」……ただの石碑だが、こんなのを見に行った暇な私だった。現在はひたすら草むしり。
『品川用水の水路と旧中原街道が交差するところに架けられていた橋が平塚橋です。品川用水は、旱魃(かんばつ)で悩まされていた品川領二宿七ヵ村(にしゅくななかそん)が幕府に願い出て、寛文9年(1669年)に完成した農業用水路です。水源は玉川上水の境村(現在:武蔵野市境3丁目)で、分水されて現在の三鷹市、世田谷区、目黒区を通り小山台1丁目で品川区に入ります。……』
以前訪れた世田谷区野沢3丁目の「野澤鬼子母神堂」前のバス停・水車橋も品川用水の名残だった。あそこから目黒区を抜けて林試の森公園あたりから品川区に続いていただろう。
写真正面を横切るのが中原街道で、その先が全長800mの武蔵小山商店街Palmだが、コロナ禍で怖いから近づかなかった。
こちらから入って、すぐ左にあった洋食店「ちいさなフライパン」へ連れ合いと最後に行ったのはいつのことだったか。昔々の小さな思い出……
今日の「My First JUGEM」は……『気遣ってもらっている……』