何故興味を持ったのかは記憶にないが「来福寺」を訪問すべく池上通りの東側を大森に向かってウロウロした2020年8月31日のこと……
当時の日記を振り返ると、大井町駅まではちょっとズルをして電車を利用したようだ。何度か歩いたから飽きていたのだろうし、急行に乗ると早いから時短を狙ったのだろう。
駅前から「見晴らし通り」を探して少し歩くと二又……何処へ行ってもこれが悩ましい。
どちらの路を選んでも同じことだったが、右の細い路地を抜けるとレトロ感漂う理容室……3色ポールがないと思ったら月曜日だった。
見晴らし通り……短い区間だけ歩道が拡張されていた。左方向は旧東海道に沿って鮫洲運河が近いので、昔は海を越えて房総半島が見渡せたのだろう。
こちらも良き雰囲気だった。フローリングが増えて、畳屋さんの経営も楽ではないでしょうが、今も頑張っておいでだろうか。
蛇足ながら当時の松原仁氏は希望の党の解党に伴って無所属だったが、立憲民主党からまた無所属となり忙しいことだろう。それでも今回の衆院選挙も強かった。同じ衆院選東京26区から出馬して落選した田淵正文氏は、公選法違反の疑いで逮捕され容疑者となった。街頭演説も聞いたが、医師に専念していれば良かったのにと思う私だ。
見晴らし通りから東の路地に入ると……
住宅街の中に見つけた。
「梶原稲荷神社」(品川区東大井3-9-15)
お狐さまがお出迎え……シャッターが下りているのは神輿庫だろうか。
なかなか奥深い……
こちらのお狐様は昭和16年(1941年)奉納。参道入り口は昭和58年(1983年)だった。
二之鳥居から先にも奉納旗がびっしり……参道右側は社務所だろうか。どなたもいらっしゃらなかった。
突き当りに三之鳥居と手水盤……隣家の瓦屋根から分かるように、南に向かって傾斜している場所に鎮座している。
鳥居ごとにお狐さまが仕えているようだ。年代確認を怠ったが、一番古いかも知れない。
社殿……狭いので全景は撮れない。
二礼二拍手一礼……
『梶原塚稲荷祠由来記
今ヲ距タル七百七十二年前(建久三年・1191年)梶原兵三景時、征夷大将軍源頼朝ノ命ヲ奉ジテ、武蔵國大井村鹿島谷ニ萬福寺ヲ建立シ、ソノ境内ニ守護神トシテ稲荷ヲ勧請シテ梶原稲荷ト尊称シタ。
元応元年(1319年)十月、萬福寺ハ兵火ニヨリ焼失シ馬込村ニ移リタル依リ、焼ケ残リシ稲荷祠ハ梶原屋敷内ニ奉遷サレテ、後、柴村来福寺ニ奉納サレ、ソノ追福ノタメ同寺ヘ松櫻ナドヲ植エ寄進シタ。
コノ梶原塚ハ、桓武天皇五代ノ裔、常陸少掾良茂ヨリ伍代ノ孫、鎌倉権五郎景正ノ子孫梶原日向守、亦梶原助五郎一族ヲ祀ル古墳デアル。
……昭和三十九年(1964年)二月十五日初午ノ日 梶原稲荷講』
※ 青字は加筆した。漢字もだが、カタカナは大の苦手につき誤字脱字があるかもしれない。
要するに、梶原景時が建立した「萬福寺」に勧請した稲荷神社が梶原屋敷内から「来福寺」に移されたと言うこと。現在は住宅で分断されているが、当地南側が来福寺と梶原氏館跡となっている。楽しみにしていた来福寺はこの後お寄りしたのだが、コロナ禍で残念な結果となった。
扁額付きの年代を感じる貫禄のある木製鳥居が置かれている。
裏へ廻ろうとしたら……
百度石……当初置かれていた場所は違っただろう。
なぜかお狐さま……歴代だろう。
社殿後方の囲みがあって盛り上がっているのは「梶原塚」なる梶原助五郎氏一門の古墳とのこと。来福寺境内にあったこの古墳脇に稲荷神社を遷座したということと解釈する。鵜木大塚古墳にも稲荷社が鎮座していたように古墳と稲荷のセットは他にもあるだろう。
ちなみに『大井・馬込周辺には梶原景時や景季にまつわる話が多く伝えられているが、一説によると、この梶原氏は景時らの一族とは別で、小田原北条氏の家人でこの地域を支配した梶原氏だともいわれている。』と「品川百景」にあるのを今日見つけた。
古き歴史の断片を、地元の講中によって今も維持されている梶原稲荷神社だった。
今日の「My First JUGEM」は……『ビーフシチュー食べた……』