足跡(寺社)181・旗ヶ岡子育て地蔵尊から法蓮寺……2020.5.5

朝は西小山でホットドックモーニングを食べたのだが、なぜか午後にも同じような方向へ散歩に行った2020年5月5日の子どもの日のこと……

昭和大学病院には新型コロナ対応のテントが出来ていた。最近はすっかり歩かなくなったので不明だが、発熱患者が少ないとは言えない現在も置かれているかもしれない。目黒病院では、今も駐車場脇にも簡易テントが張られ、PCR検査などは屋外で行っているようだ。

立会道路から中原街道を渡り、旗の台駅東口近くのこんな路地を入ると踏切の手前に赤い幟が目に入る。

赤い幟を左に入ると、道案内のように、また幟が立っている。

奥に進むと駐輪場に阻まれるが、柱の隙間から失礼すると……

ビルとビルとの間に参道……右のイチョウは品川区保存樹だが、もう一本地蔵尊脇にもあった。ご神木なのだろう。

東急池上線が全線開通した昭和3年(1928年)に、電車に不慣れな近隣住民の安全を祈願して「旗ヶ岡」駅前広場に地蔵尊を祀ったのだが、昭和26年(1951年)に大井町線の「東洗足駅(旧駅名)」と池上線の「旗ヶ岡駅」とを現在の交差地点に「旗の台駅」として合併されたので、今は旗ヶ岡駅はない。駅の移転が計画されるなか、昭和13年(1938年)に現在の場所に祠を建てて奉祀したようだ。
 なぜかベンチも置かれているが灰皿はない。当然だわな~

写真右方向20mほどに池上線が走っているから、旧旗ヶ岡駅はこの近くだったはずだ。
「旗ヶ岡」「旗岡」あるいは「旗の台」と呼ばれたのは、長元3年(1030年)に源頼信公が上総・下総で起こった平忠常の乱を治めるべく同地へ赴く際に立ち寄った近くの八幡大社で戦勝を祈願するため、高台に陣を敷き源氏の白旗をなびかせて大いに武威を誇ったことに由来してのことだろう。

「旗ヶ岡子育地蔵尊」……昭和13年からずっとこの場所で町を人を見守ってきたようだが、マンションの隙間で見通しが悪くなったことだろう。
 鯉のぼりも飾られ、きれいなおべべを着せてもらっていたが、連れ合いを案内した時の衣装は記憶にない。短時間でも、また一緒に歩きたいものだ。連れて行きたいところはたくさんあるんだけどな~

立会川が暗渠となっている歩きやすい緑道を歩いたが、他人の姿はまったくなかった。不要不急の外出は避けろと言われていたからだろう。

大井町線通過……氷屋さんは、まだ健在だろう。

踏切は渡らず、私好みの路地を行く。突き当りが「法蓮寺」「旗岡八幡神社」の裏になる。

大井町線荏原町駅のすぐ北側に「法蓮寺」門前……右は日建聖人記念碑で、明治35年(1902年)4月28日・日蓮宗開宗650遠忌に際してとのこと。(品川区旗の台3-6-18)

記念碑と向き合うように立派な寺号碑……

天保の改革」にあい、以降寺運衰退の止むなきに至った。数代を経て第45世 常慎院日朝上人は当寺の再興に全身全霊で打ち込まれ、見事な伽藍(がらん・寺院の建物の総称)と枯山水の有名な庭園を造られたが、昭和20年(1945年)5月の大空襲により灰燼(かいじん)に帰した。(同寺HPより)
 写真左の祠が……

荏原七福神のお一人が祀られている。

清廉で商売繁盛・福徳をもたらす「恵比寿さん」がちゃんとおられた。「小山八幡神社」「摩耶寺」では大黒天も寿老人もお目にかかれなかったので嬉しかった私。

「法蓮寺本堂」……文永年間(1264~1274年)に創建。日蓮大聖人の直弟子六老僧のひとり日朗聖人の弟子・九老僧越中阿闍利朗慶上人にて開山された。鎌倉時代中期に、この地の豪族・荏原氏の居館を寺としたのが始まりで、地続きの旗岡八幡神社とともに源治氏ゆかりの寺として「八幡山」の山号が付けられいる。
 先に書いた通り昭和20年の戦災で焼失後、昭和41年(1966年)5月に再建されたそうだ。建坪総面積は約166坪……

本堂内……正面に日蓮大聖人。その後ろに大曼荼羅御本尊。手前には八幡菩薩が安置されているとのことだが見えない。南無妙法蓮華経……

本堂から眼下に大井町線通過。踏切の反対側に商店街があるが、とにかく駅に近い寺院だ。近いと言うより「駅前」と言った方がピッタリする。

本堂左……江戸時代、11代将軍・徳川家斉は鷹狩の際、人柄の良い住職を慕ってたびたび立ち寄ったと云われる。将軍がどんな人柄を気に入ったかといえば、将軍相手の相撲でも住職は手加減しなかったそうだ。昔も媚びへつらう忖度家来が多かったのだろう。

総本山は身延山久遠寺で、直接の本山を池上本門寺。境内面積は約1212坪だそうだ。理由は不明だが「しながわ百景 No.81」に名を連ねている。
 連れ合いに、こちらの恵比寿さんも合わせてあげたな~ また歩きたいね。

今日の「My First JUGEM」は……『新紙幣……』