足跡(寺社)239・吸江寺・瀧川政次郎像・常盤松の碑……2020.9.22

「渋谷氷川神社」を第一目的にして、渋谷から恵比寿方面に歩いた2020年9月22日のこと……

渋谷氷川神社の東の小さな参道を出て、国学院大学の脇を歩くと……

メディアセンターの前に「瀧川政次郎像」と「顕彰碑」が置かれていた。無知な私は、氏を知らないが「博覧強記(はくらんきょうき)の法学者」とのこと。「広く書物を読み、いろいろな事をよく記憶していること」を博覧強記と言うことも知らなかった私。それでも恥ずかしくはないが。
 ちなみに令和元年(2019年)7月に世田谷の松陰神社から移設されたようだが、同神社を訪問した際は気付かなかった。墓地にでも置かれていたのだろうか。

国学院大学に挟まれた道を北東に少しすすむと「吸江寺(きゅうこうじ)」……(渋谷区東4-10-33)

本堂にまっすぐ伸びる参道……

蓮の鉢が置かれていたが、葉はまだ枯れ落ちることなく健在だった。

普光山 吸江寺」本堂……当初は板倉周防守重宗の奥さん(法名 玉樹院寶林清月・寛文8年[1668年]没)が麻布櫻田に草庵を購入し、慶安3年(1650年)に深く帰依していた石潭良全(せきたんりょうぜん・と読むのか?)によって開山。当地への移転時期は「元禄14年(1701年)」と「宝永3年(1706年)」の二通りあるらしい。
 同寺では石潭良全和尚(延宝8年1680年寂)の追善法要も行われているようだ。

「本堂扁額」……『……創建時代、剣術に秀でた開山和尚のもとに多くの門下生が剣術と禅について学びに来られていました。現代でも受け継がれている「無外流」という剣の一派は吸江寺から生まれたともされています。(同寺HPより)』
 剣客商売・秋山小兵衛親子も無外流だったな。

臨済宗妙心寺派の寺院……臨済宗寺院は大名や武家に好まれたそうだが、「京都」(妙心寺南禅寺東福寺大徳寺天竜寺・相国寺建仁寺)・「鎌倉」(建長寺円覚寺)・「浜松」(方広寺)・「滋賀」(永源寺)・「山梨」(向嶽寺)・「広島」(佛通寺)・「富山」(国泰寺)の14派(本山)に分かれているようだ。中でも、大本山妙心寺からなる妙心寺派寺院が最大とのことだった。
 禅宗寺院では、私は曹洞宗の方が多く訪問した気がする。黄檗宗は一ヵ寺だけだったかも。

御本尊は「観音菩薩坐像」で、「達磨大師坐像」と「伽藍神倚像」が脇を固めていると。区指定有形文化財

本堂前から参道……明和6年(1769年)在銘の鐘と、鎮守英彦山大権現社は失われてしまったと。赤い灰皿ありました。ありがとうございました

鐘楼の向かい側に……

見かけない境内社だと思ったが……

さりげなく手水盤……「丸に立ち沢瀉(おもだか)」の紋が彫られている。戦国武将「毛利元就」が、水田や池、沼などに自生する多年草「沢瀉」にトンボが止まっているのを見たあとに戦に勝ったことから、吉祥のものとして毛利家の家紋としたらしい。ちなみに、毛利元就菩提寺「洞春寺(とうしゅんじ)」は、武家が好んだ臨済宗寺院だ。

柵の後ろに何体か並んでいた。

西方地蔵・賽の河原地蔵尊……あとは読めない。五所川原に川倉賽の河原地蔵尊というのがあるらしい。地蔵堂内とそのまわりには大小約2,000体のお地蔵様が祀られていると。いつか、青森の社長に会ったら聞いてみよう。

ふり返ってボチボチ失礼したのだが、「吸江寺」というめずらしい名前のお寺は、同寺と高知市、愛知県犬山市の3ヶ所だけのようだ。また3ヶ寺とも臨済宗寺院とのこと。
 各地吸江寺との繋がりはないようだが、同寺開山和尚が『一口吸盡西江水 洛陽牡丹新吐蘂』の言葉に特別な関心があり「吸江寺」と名づけたのではないか、と同寺HPにあることを今日気付いた。(リライトしてみるものだ…‥)
「一口吸盡西江水」 一口に吸い尽くす西江の水
「洛陽牡丹新吐蘂」  洛陽の牡丹新たに蘂(ずい)を吐く
 一口で西江の水を飲みつくせば、天下第一といわれる洛陽の牡丹が新たに花ひらく……中国国内で3番目の長さを誇る西江の水など一気に飲めはしないが、好き嫌いや損得などなど、それら全て飲み込み、ありのままを受け入れることによって真価が見いだせると解釈する。煩悩を捨てた悟りの境地には絶対に至れない私だ。

吸江寺を後にして北東へ下って行く道を少し歩くと……

左側は「常陸宮(ひたちのみや)邸」らしい……広大な敷地でどこが玄関かわからない私。下って行っても撮影禁止だろうからここで引き返すと……

植え込みに埋まるように……

「常盤松の碑」……(渋谷区東4-4-9)
 説明書きによると、源頼朝の妾と、世田谷城主吉良頼康の妾、二人の常盤が存在したとあったが、近くの渋谷城で義朝、頼朝の二代に仕えた金王丸の存在があっため、前者の常盤御前が植えたという伝説が生まれたのだろう。
 碑は、嘉永6年(1853年)に島津藩士によって建てられたとされる。黒船が浦賀に来航し、ニューヨークでは万博が開幕、将軍も12代家慶から13代家定に継がれた時代。世の中の変わり目を肌で感じた藩士たちが伝説を残したのかもしれない。
 ちなみに、常盤御前がこの地を訪問した記録はないそうだが、当時あった常盤松は代価壱千両と言われた名木だったと。
 蛇足ながら、碑に刻まれた「篆書体(てんしょたい)」という文字は全く読めなかった。

常盤松の碑と向かい合う渋谷区郷土博物館・文学館の前に植えられたプラタナスのような木肌の木は「白松(はくしょう)」という。中国では樹齢800~1300年のものが確認されるほど長寿の象徴らしく、神聖な木として宗教施設にも植栽されるらしい。私は他所で見た記憶はない。郷土博物館には興味があったが、コロナ禍であり入館は断念した。入館料100円を惜しんだわけではない。
 ちなみに、同館は渋谷区議だった故白根全忠氏が寄贈した宅地・邸宅をもとに開館したのが始まりとのことで「白根記念」の肩書が付いていた。

脇の道沿いに並んでいた。手前の「五輪塔」は正徳3年(1713年)につくられたお墓。 二番目の「傘(からかさ)屋の碑」は江戸時代のもので、もとは千駄ヶ谷にあったものを金王八幡宮から寄贈された。奥の「聖観音」2基は、もと恵比寿橋から明治通りにでる左角にあった。そのあたりで急死した大名の奥方の供養に建てられたそうだ。戦後しばらくして、ゴミの中に埋まっていたのを見つけてもらい、成仏できたことでしょう。背の高い聖観音からは寛文10年(1670年)の文字がしっかり読み取れた。
 寺社に限らず、街角の石仏など、ぶらぶら眺めて歩いた頃が懐かしい。

今日の「My First JUGEM」は……『吊るし柿……』