足跡(寺社)232・来迎院……2020.8.31

大井町から大森に向かった2020年8月31日のこと……

九頭龍権現水神社を後にして、よっこらしょと池上通りに向かって坂道を西に上ると……

右手の三角地帯に……

お堂が3つ……昔は向かいにある来迎院の境内だったのが、道路で分断されてしまったらしい。暮らしが便利になるためには失われるものも少なくない。

3棟並んだお堂の右側には舟型の地蔵菩薩が2基納められている。明暦2年(1656年)と万治2年(1659年)の造立。お堂の左に上半身だけ写っている笠塔婆型の塔は寛文7年(1667年)造立で「南無阿弥陀仏」と彫ってある。

江戸時代初期に、大井村に念仏講が存在していたことを示す資料として重要とのことで、区指定有形文化財となっている。

中央のお堂には3基……両脇は庚申塔でしょうが、右の笠型はなかなか立派だ。

センターは、不動明王……

一番左側のお堂には石仏3体と石塔……左の小さいのは頭部を修復したのでしょう。立派なお堂に保護されていますが、どうぞ壊れませんことを願う。

三角地帯の先端にポツンと石灯篭……

道路を渡り、向かいの来迎院山門前から見るとこうなる。予想していなかった石仏・石塔に会えてよかった。

念仏講供養塔と向かい合うように「来迎院」山門……(品川区大井6-18-8)

天台宗の寺院だが、門についている菊のマークは「菊輪宝(きくりんぽう)」と言って総本山延暦寺の寺紋のようだ。菊の御紋と言えば皇室の紋でもあるが、元は比叡山に自生する叡山菊を最澄様が献上したことが始まりと伝えられる。この延暦寺の寺紋は、菊に仏教の宝輪を重ねたとのこと。
蛇足ながら、天台宗の宗紋は「三諦章(さんたいしょう)」と呼ばれ、菊に三ツ星らしい。

鹿嶋山来迎院……平安時代第63代冷泉天皇の代・安和2年(969年)9月19日尊栄訪印が、慈覚大師作の薬師如来を安置して「鹿嶋示現山常住鶴林寺音来迎院」と名づけたのが始まり。同時に、常陸鹿嶋神宮から祭神・武甕槌神(たけみかづちのかみ)の御分霊を奉斎し、境内の社に安置した。後に住職不在となり大破したが、南北朝時代 貞和3年(1347年)に了覚法印が来住して中興の開山となり「示現山常林寺観音院」と改称。 (天台宗東京教区HPより抜粋)
連れ合いは鹿島神宮に行ったことがあったな。私は行ったような行かないような……

景色を賞した徳川三代将軍家光公が、正保2年(1645年)、境内に「大井の御殿」と称する御殿を新築。鷹狩のたびに御殿で献茶があったため、近隣住民は同寺を「御茶屋御殿寺」とも称したと。薬師如来を篤く信仰した家光公が寄進した「日光月光菩薩」と「十二神将」は本尊・薬師如来の脇侍として安置されているそうだ。

こじんまりとしているが整った庭園には、私の好きな半跏思惟像もおられた。

寛文7年(1667年)に栄住和尚が住職となった折、将軍家と檀信徒の寄進によって現在の本堂が新築されたが、これは現存する品川区最古の木造建築物とのこと。
さらに、上野寛永寺一山冷泉院の住職が当寺を兼務することとなった天保4年(1833年)に「鹿嶋山来迎院」と現在の名に改称したそうだ。幾度も変えてきたようだが、最初の寺名はいかにも長すぎたでしょう。
ちなみに、トラックが通行止めをしていたので本堂へは近づけなかったので、遠くから合掌・南無阿弥陀仏……

トラックの荷台後方にあった「宝篋印塔」は、文化8年(1811年)、義周和尚の時に行われた本堂の大修繕の記念らしい。

明治元年(1868年)の神仏分離令によって鹿嶋神社は分離されたが、御神体は同寺でお祀りし現存に至っていると。

来迎院から池上通りにでると「品川歴史館」があった。運が良いか悪いか? 月曜日だったのでお休みだった。同所の状況は不明だが、館内での写真撮影を禁止されている場所には寄らない私。

今日の「My First JUGEM」は……『浄水器交換……』