足跡(寺社)216・教学院(目青不動尊)……2020.6.20

三宿神社を皮切りに、玉川八十八ヶ所霊場の一寺「円泉寺」などを訪問しながらブラブラした2020年6月20日のこと……

住宅の中の路を世田谷線三軒茶屋駅方面に向かうと……

右手に……

またしても裏口入寺のようだったが「教学院」に到着。正式名称は「竹園山 最勝寺 教學院」だが、寺号ではなく院号を通称にされている。金蔵(氷川山虚空蔵寺)・花光院(福田山蓮花寺)・遍照院(光明山無量寺)・観蔵院(峯松山正善寺)などなど、寺号よりも院号の方がその寺院の特徴を表している場合がある。
 また教学院は「目青不動」とも呼ばれ、江戸五色不動、関東三十六不動十六番札所となっている。

裏口から入って直進すると本堂なのだが、すぐ右手に「不動堂」がある。

扁額が並ぶ。(それぞれは割愛するが)中央「不動明王」の右は「閻王殿」とあったので、初めは閻魔様が鎮座していたのかもしれない。左は比叡山の高僧「元三大師(がんざんだいし)」となっており、天台宗寺院とわかる。

目青不動尊は「東都五色不動(五眼不動)」の一つで、他は「目黒不動」「目白不動(豊島区の金乗院)」「目赤不動(文京区の南谷寺)」「目黄不動台東区の永久寺)」だが、目白不動以外は天台宗のようだ。

関東三十六不動第16番霊場でもあるが、開創されたのは昭和62年(1987年)であり、歴史は新しい。不動明王だけあり、多くが真言宗寺院から構成されている。

明治維新後に麻布の観光寺が廃寺になったことでこちらに移されたとされるご本尊の不動明王像は秘仏のために公開していないとのこと。従って、堂内においでなのは庶民信仰のために用意したのだろう。きちんと、脇侍の矜羯羅童子(こんがらどうじ)と 制多迦童子(せいたかどうじ)もおられるが、明王が手にしている「利剣」は煩悩(ぼんのう)や悪魔を打ち破る仏法の力を持っている。

不動堂から奥の本堂に進もうとしたが……

ふと振り返ると、紫陽花の脇で呼んでいた。

「夜叉塚」とは、悪鬼・夜叉となって死んだ人を慰めるためのものらしい。寛延2年(1749年)造立。

不動堂を背にして、奥の本堂へ向かう参道。手前は庫裏と思われる。

本堂への参道右側……境内にある木の中で、ひときわ目を引く大木は「チシャノキ」とのこと。世田谷名木百選だが、昭和62年の選定だから当初から選ばれている。蛇足ながら「百選」とあっても、実は150の登録がある。

チシャノキの後方に、戦争犠牲者慰霊之塔や石仏・石塔が並ぶ。

小さな虫が飛び回っていたので、年代は未確認で退散したようだ。

「獣魂塔」……野生動物の魂の安らぎを願うものだろうが、丁寧な造りだった。合掌……

振り返ると獣魂塔の真正面に「庫裏」……良いたたずまいだ。

庫裏の右手に本堂がある。保存樹の立派なイチョウの木の脇にある欄干の上部のような形の物体は何なのか。

「教学院本堂」……慶長9年(1604年)玄応和尚の開基により、江戸城内紅葉山に建てられた。後の明治四十一年(1908年)に青山からこの地に移された。本尊は恵心僧都(えしんそうず)作の阿弥陀如来とされるが、これもまた非公開だろう。
 ※ 恵心僧都源信)=比叡山に入山し、13歳で出家。比叡山横川の恵心院に住したことからこう呼ばれたらしい。(942~1017年)

「…人かずならぬ身の卑しきは、菩提を願うしるべなり。このゆえに、人間に生まるることを喜ぶべし…」とした恵心僧都は一千年御遠忌が過ぎた。
 人間に生まれたからこそ菩提を求めることができるのであり、それは大いなる喜びであると源信は言っている。人間として今 此処にあることに感謝しなければ……南無阿弥陀仏……

不動堂前まで戻り、南へが表参道のようだった。右は教学院会館。

山門正面は東急世田谷線……

こちらが現在の正門なのでしょう。(世田谷区太子堂4-15-1)

右に三軒茶屋駅……電車来ないかな~と思ったら……

来た……

教学院を後にして線路沿いをちょこっと進み、西太子堂駅の南側住宅街を歩くと、電信柱の後方に……

左卜全住居跡……

『常道の芸では 先がしれてる されば 逆 遠き苦難の みちを求めん』
突発性脱疽(だっそ)を発病し医師から切断を薦められるも、激痛を共に生きる道を選んだと。役者であり続けたかったのであろう卜全さん。晩年は松葉杖を手にしてなかったしら?

プレートには……
『名優 左卜全 住居跡
 左卜全(本名・三ヶ島一郎/昭和46年5月26日没/享年77)は、おとぼけと洒脱の独特な芸風でユニークな名脇役として注目され、代表出演作に黒澤明監督作品の「白痴」「生きる」「七人の侍」「どん底」等の映画作品があり、晩年(75歳)には「老人と子供のポルカ」のレコードを出し、大ヒットし、広く人々に親しまれました。
 またこの地は、左卜全の虚構と伝説に満ちた生涯の真実と夫への限りない愛を持って描き出した妻 三ヶ島糸著書「奇人でけっこう 夫・左卜全」(装画・題字=森繫久彌/文化出版局)があり、糸が平成8年7月25日、87歳で没するまで愛したゆかりの地でもあります。
 人も惜し さらに芸惜し へだつ世のおもいはるかに燃ゆるおりおり(糸)
 ふるさとの土に召されて とことはに君がみたまのここにしずまる(糸)
 共にある世のなごり惜し 添寝して細りゆく手むねにあたたむ(糸)
 〈昭和46年4月5日(糸の誕生日)病床にある夫・卜全の床の前で〉
 ひとしれず消えたき思ひ草の葉の陰に宿りし 露のごとくに(糸)
 〈独り暮らしを貫いた世俗の喧騒をよそに卜全没後超然と生きた25年〉
 いつしかと都の塵に汚れたるわが白かりし衣かなしき(一郎 ※卜全の本名)
 〈少年時代東京で働いていた時に、姉で歌人の三ヶ島葭子にこの歌を送ったところ、すぐに「鶯のはつ声よりも嬉しき君がはじめて送りきし歌」と返歌がきました。〉
 なお、ここにありました冠木門は出生地の所沢市三ヶ島堀の内の三ヶ島家奥津城(お墓)に移築し、映画・テレビ・舞台・ラジオの台本等の資料は所沢市教育委員会に寄贈し三ヶ島公民館に展示されています。
 その他のスチール写真等の資料は、この隣の甥 中村靖宅に保存してあります。跡地の住居は「プレステージ レフト」の名称で、左卜全の名声を未来に残すためここに表記したものであります。
 平成11年春彼岸 左卜全を偲ぶ会 中村 靖 建立』とあった。
 説明書きの下方に「世界人類が平和でありますように」と書かれた自筆の色紙からお人柄が伺えた。
 かつては、冠木門のあるお家が建っていたそうだが、現在はどなたかがお住まいになっているベランダの前で失礼しました。

今日の「My First JUGEM」は……『またイモムシ登場……』