円泉寺から住宅街の裏路地を右へ左へ歩き、玉垣まで来たら正面に鳥居発見。でも「なんだか小さいぞ~」と思った私。
路地右側の玉垣を上がってみると小高くなった児童公園で、さらに高くなっている右側が八幡神社だった。この公園は区の要望で供与されているとのことだから、基本的には境内なんだろう。
公園内は泥地だったから道路に戻って進むと鳥居が2基。右が八幡神社の鳥居で、正面が「太子堂辨天社」……仏教の神だから境内ではない場所に祀ったのか? 水をつかさどる神だから、烏山川付近に鎮座していたのかもしれない。近くに弁天橋跡があるので、 もしかしたらそちらの方からこられたのか? などと勝手に考えた私。
弁財天といえば琵琶を抱える姿を思い浮かべるが、日本にもたらされた当時は「一面八臂」で、手には武器を持っていたそうだ。滋賀県琵琶湖に浮かぶ竹生島(ちくぶじま)にある真言宗豊山派の宝厳寺(ほうごんじ)には、60年に一度だけご開帳される奈良時代建立の一面八臂大弁財天が祀られているそうだ。無人島らしいが、住民登録がないだけで、管理人は交替で寝泊まりするのかもしれない。
社殿前に「しゃもじ」……なぜしゃもじかと言えば、琵琶に似ているからかもしれない。みなさん願い事はそれぞれだ。
「太子堂八幡神社」(世田谷区太子堂 5-23-5)……生い茂る数百本と云われる樹木が、住宅街に癒しの空間を提供していた。
石段……車椅子の方には社殿左から訪問できるスロープの西門があった。回り込まなければならないが。
石段左に社務所・授与所……
時節柄の「茅の輪くぐり」が用意されていたが、左の看板は「笹の輪」で、「笹」の字だけ張り替えられていた。三周すると時間がかかるからだろう、こちらは左右に一回ずつ回るよう指示されていた。
木々の中に埋まるように建っている社殿は景色が良い。社殿右側の小屋は絵馬やおみくじなどが置かれていたが、無人だった。
『今から千年程の昔 平安時代の終わり頃、陸奥(宮城・岩手)の豪族安倍氏の反乱(前九年の役)を源頼義・義家親子が征伐におもむく途中、鎌倉道に面したこの神社に戦勝を祈願し、杯を交わし休憩をしたと伝えられています。正確な文献の資料はありませんが、このことから永承6年(1051年)以前には、この地の守り神としてこの神社の歴史が始まっていたと考えられます。(同社HPより)』
同じく「前九年の役」の折には駒繋神社にも武運を祈りに立ち寄ったようだから、行く先々の神社で祈願したのだろう。
社殿前左に「良縁祈願 相生の榊(サカキ)」……ハート形の縁結び絵馬が下げられている。300円だが無人。お金置いて行かない御仁はおられないだろうが。
戦禍で焼失しなかったようだが、昭和11年~12年(1937年)にかけて、神楽殿や社務所を含めて小さな社から現在の立派な社殿に新築されたと。
社殿表と、拝殿にも扁額がかけられている。御祭神は誉田別命=第15代 応神天皇のようだ。
拝殿から参道……くぐっている人はいない。
社殿の右方向奥に赤い奉納幟を発見……
いったい何基あるのか……
御祭神・稲荷大明神(宇迦之御魂大神)が稲荷山に鎮座したのは、奈良時代・和銅4年(711年)2月午の日……1300年以上前のこと……稲荷信仰の歴史は長い。そしてこれからも続いていく。鳥居の後ろに神狐像があるのだが、隠れてしまった。
稲荷大明神前から見た境内……右に社殿、正面に神楽殿。
赤い幟はおみくじや絵馬の無人販売所で「福神みくじ」「開運みくじ」「目出鯛・鯛みくじ」「まねき猫みくじ」に「幸せ卯みくじ」と、おみくじだらけ。絵馬も各種取り揃えてあったが、300円が主流だった。
舞台には招き猫と幸せうさぎがお出迎え……
うさぎは伸びたり縮んだり忙しい。猫も手招きすれば良いのにと思った私。
手水舎の奥に……
境内社と柵……
鹽竃(しおがま)神社と出羽三山神社の合祀殿……鹽竃神社の御祭神は鹽土老翁神(しおづちおぢのかみ)で「清めの神を初めに拝み、八幡さまにお参りするとよいでしょう」と書かれていた。八幡さまの後に参ってしまった。
ちなみに出羽三山は、月山、羽黒山、湯殿山。神仏習合時代は権化・権現を祀り、真言宗、天台宗など多くの宗派によって奉仕された修験道の山だ。明治以降に神山となって、月山神社は月読命(つきよみのみこと)を、出羽神社は稲倉魂命と伊氏波神(いではのかみ)の二神を、そして湯殿神社は大山祇命(おほやまつみのみこと)・大己貴命(おほなむちのみこと・別称 大国主神)・少彦名命(すくなひこのみこと)の三神を祀っているようだ。
左の足元になぜか蛸がいた。タコは「足」だと思っているが、アリストテレスの「動物誌」には「タコは、腕を手としても足としても使う」と記されていると。足ではなく、元来は腕ということか。8本の腕を手にしたり足にしたり、自由自在に操るタコの知性は高いと言うが、値段も高くなった。㎏単価は鮪を凌ぐほどになっている。「悪魔の魚」と呼び、口にしなかった国の人々も食べるようになったからかもしれない。たこ焼屋さんは大変だろう。
合祀殿後方の柵の中に、幸せうさぎがいた。
左は御神木ではなく「今上上皇御生誕記念樹」昭和8年(1933年) 12月23日……どうぞお元気で
八幡神社に別れを告げ……
振り返ると住宅街の真ん中に木々が見送ってくれた。
今日の「My First JUGEM」は……『山掛け食べた……』