洗足流れに沿って南下し、いくつかの寺社を巡った2020年2月1日のこと……
林昌寺の後は本門寺方面には向かわず南西に進路を取った。「道々橋第二児童公園」とあるが、日記を振り返ると「道々橋」の読み方を当時は突き詰められていなかった。でもって調べたら、東急バスの系統一覧に「道々橋 (どどばし) 」と見つけたのでスッキリした。
公園を通過すると呑川にぶつかる。上流方向にある目の前の橋が「道々橋」だ。
江戸時代、呑川に架かる橋の修繕負担に駆り出された近隣住民が橋を手がけた。当時は一本橋を馬で往来していた時代であり、怖がる馬を馬上から「どうどう…」となだめて歩みを進めたことから「どうどうばし」「どどばし」になったと。違う説もあるようだが、私はこれが気に入っている。現在は「大田区仲池上」だが、かつての村名は「道々橋村」だっただろう。近隣の「道々八幡神社」も名を残している。
道々橋を渡ると緩やかに左カーブの道……その左にあったのだが、呑川は何度も歩いたのに気づかなかった私。思いがなければ見過ごすということだろう。歩く足元の石ころや鉄塔と同様に……
『如実知自身』……自分自身を知るためには周囲も見えていなければならない。本当の自分に出会うには、他人の心も理解できないとダメのようだ。
「樹林寺山門」……(大田区久が原2-1-25)
左右に新旧二つの題目塔……南無妙法蓮華経は日蓮宗の寺院と分かる。
『開山詮了院日義が寛永5年(1628年)没であることから、そのころの創建と考えられるお寺。当時付近の村には各村ごとに一ヶ寺以上の寺があったが、資力が乏しいこの道々橋村には寺がなかった。そんな中、江戸城に奉公し将軍付きの腰元となった村の綿屋の娘の助力で建立にこぎつけたそうだ。(日蓮宗東京都南部宗務所HPより)』
「殿様~ 私の村にお寺建てて~」と耳元でささやいたのかもしれないが、村人にとっては救世主であった。近隣の円長寺・長慶寺・林昌寺・安詳寺・本光寺などは非常に近い。樹林寺はそばにある道々橋八幡神社の別当寺であったようだが、子安八幡、末広稲荷、久が原東部八幡、同西部八幡と、神社も多数点在しているエリアだ。村ごとに一ヶ寺・一ヶ社が村民の望みだったことがうかがい知れる。
「本堂」……この寺も、元は碑文谷法華寺の末社だったのを身延久遠寺末に改められたと。「円長寺」しかり「長慶寺」しかり、このあたりの寺院は法華寺出身のようだ。不受不施派を禁教とした幕府の責任は重い。
「本堂扁額」……安詳寺 第十九世 日明上人 昭和56年10月とある。
【附けたり】……2月15日に訪問した「安詳寺本堂の扁額」には安詳寺第十九世 日明代昭和41年5月22日とある。戦災で焼失して仮堂だった堂宇を、昭和40年をもって今に再建したのが十九世日明上人とのこと。宗派も創建時期も同じなので、仲良しなのかもしれない。
非公開だが大田区文化財の「日蓮聖人坐像」は、木造寄木造りで、像高51.5㎝。寛文12年(1672年)に彩色されたことが像底の墨書銘に示されていると。
開眼は幕府によって弾圧を受けていた碑文谷法華寺十四世日禅ということから、この像は同派の隠し本尊であったとも想定できるようだ。法華寺から遷座されたのか? 全体が黒一色に塗りつぶされているらしいことは、不受不施禁止令とかかわりがあるのだろう。以前も黒い像の説明文を見たが、どこだったかすっかり記憶力減退。
ちなみに、この祖像は一本三体で他の二体は堀之内妙法寺と麻布長耀寺に奉安されていると……妙法寺は毎年正月に詣でる。
本堂から境内の眺め……
本堂左が庫裏であろうが、こちらも「十三重石塔」だった。
なぜ「十三重」が多いのか、仏教の世界観である「六道、三界、十界」から考えると19になるのに。三界と十界なら13になるが、六道を外す意味が分からない。
でもってちょっと調べたら、古代中国の五行思想に由来するのではとの記事があった。万物は木火土金水の五元素から成るとの思想だが、「金」は数字で表すと4と9にあたると言う。確かに足すと13になる。では、なぜ木でも火でもなく金なのかと言えば、骨に通じる墓所にふさわしい白色を意味するのが金とのこと。諸説あるようだが、とりあえず納得しておく。リライトして、また勉強した。すぐ忘れるが……
手水舎があって、その後方に……
法界萬霊塔……読み取りにくいが寛延3年(1750年)のようだ。寛永3年(1626年)ではないだろう。
手水舎脇から山門……庫裏、本堂、墓地へと動線が考慮された境内だった。枝垂れ桜は綺麗だろう。
手入れは大変でしょうが、美しかったのでパチリ……
今日の「My First JUGEM」は……『ラッキョウの季節……』