足跡(寺社)374・羽田第一水門から玉川弁財天・水神社(2021.10.29)

大田区羽田地区を歩いた2021年10月29日のこと……くたびれてはいたが、しっかり歩けたあの頃がなつかしい。

私は「羽田道」沿いにある左の鷗稲荷神社前に立っているが、右手から来て写真方向にある弁天橋まで辿る「羽田道」の一部のこの辺りは「七曲がり」と呼ばれる。右左右左……と、7回曲がって行くのだろう。

前の写真から80mほど歩くとこんな所……七曲がりはここを左。

左を向くとこんな道……この先を右-左-右と曲がり、途中の「藤崎稲荷神社」「白魚稲荷神社」前を通過して弁天橋へと向かったと推察している。(私が勝手に思っているだけなので、確証はありません。為念)

後で「藤崎稲荷神社」も「白魚稲荷神社」も寄ってきたが、この日は「七曲がり」を辿る散歩ではなかったので私は右へ……

路地を抜けると赤レンガ……

右(西)方向には多摩川にかかる「大師橋」が見えた。

レンガの積み方は「イギリス積み」だ。強度と耐久性を高めるには、長手面と小口面を1段ごとに交互に配置するこのイギリス積みの方が、フランス積みより優れている。

レンガの切れ目から覗いたら何か見えた……大田区羽田6-33

住宅の間を進むと「羽田第一水門」が口を開けていた。昭和63年(1988年)に竣工されたらしい防潮水門の手前は、高潮時緊急避難用の船溜まりになっていた。開いている水門から多摩川向こう岸の川崎が臨めた。
「第1水門」は東京側河口から1.8㎞の場所だが、ここから上流(写真右方向)700mほどに「第2水門」がある。第2のほうが古いのだけど、河口に近いからこちらが第1なのだと。第2は、以前訪問した龍王院の正面付近なのだが、興味がなかったのか見過ごしてしまった。「第2水門」を越えて、ここから2.2㎞ほど上流にある「六郷水門」は6月に見てきた。とにかく暇な私。

なんとか河川敷の道に出られないかフェンスをたどってみたが駄目だったので、仕方なく戻って裏から迂回した。多摩川に設けられた現在の堤防より1本奥のこの道沿いに「旧れんが堤」が続いている。猟師町羽田の昔の面影を忍ばせているこのレンガ堤が築かれたのは大正7年(1918年)から行われた河川改修工事だったとのこと。
「漁師」でなく「猟師」が気になったのだが、このあたりは江戸幕府への鮮魚献上と引き換えに「漁猟特権」が与えられており、漁業技術者の尊称をこめて「漁師」ではなく「猟師」と呼ばれたそうだ。言葉では同じなのだが、尊敬の念は大切にしなければ。

多摩川沿いの路に出た。車は来ないようなので嬉しかった。

第1水門……わざわざ近くまで行くなんて、本当に暇人だと我ながら感心する。

上流に大師橋……橋のたもとに「第2水門」と「羽田の渡し跡」がある。江戸末期には、川崎大師へ参詣にいく人たちで溢れたらしい羽田の渡しは、昭和14年(1939年)に橋ができたのでお役御免となった。現在の大師橋斜張橋)は平成3年(1991年)架橋の2代目らしい。橋の向こうに富士山が見えた。
 いつかは大師橋を歩いて渡り、真言宗智山派で玉川八十八ヶ所霊場第1番札所の川崎大師「金剛山金乗院平間寺」に行ってみたいと思いながら虚しく時は流れてしまった。

多摩川の河口方向……羽田飛行場へ下りていく飛行機も時折見られた。
対岸は川崎市

独り川風に吹かれながら堤防沿いの路を引き返し、サイクリングコースの起点のような場所の左に……

立て札ありました。「七福いなり」の名の通り、稲荷社は七社だが、こちらの「弁財天」だけ『別格』として加えられている。(大田区羽田6-13-8)

多摩川の縁の、これだけ下がっている場所に「玉川弁財天」と「水神社」とが同居している。奥に鎮座する「玉川弁財天」の方が立派に見えるが、古くからこの地に祀られていたのは手前左・白い鳥居の「水神社」。「玉川弁財天」は昭和20年(1945年)に現在地に遷座してきたのでありました。
 写真は載せないが、降りて行くスチール製の階段は怖かった。傾斜だけでなく、頑丈そうには見えたが補強の跡に不安を覚えた。

「玉川弁財天」……古くは「羽田弁財天」と称し、現在の羽田空港内(鈴木新田)にあり、宝永8年(1711年) に遷し奉ったとの記述があった。
 先にも触れたが、昭和20年にこの地に遷座した訳は連合軍の強制立退命令によってだった。海老取川にかかる橋の名は今も弁天橋だから、その近くに鎮座していたのだろう。
 社殿右前の囲いに、3つの正三角形が上向きに配置されて大きな三角形を構成する印は「三つ鱗」と呼ばれるが、日本三大弁財天の一つ「江島神社」のHPには次のように書かれていた。
太平記によれば、建久3年(1190年)鎌倉幕府を司った北条時政が、子孫繁栄を願うため江の島の御窟(現在の岩屋)に参籠したところ、満願の夜に弁財天が現れました。時政の願いを叶えることを約束した弁財天は、大蛇となり海に消え、あとには三枚の鱗が残され、時政はこれを家紋にしたと伝えられています。』
後に江島神社が「三枚の鱗」伝説にちなんで考案した「三つ鱗」を「向い波」で囲った社紋の一部をこちらも使ったと推測している。(あくまで私の考えだから当てにはならない。)

なかなかインパクトのある彫刻だった。

社殿の奉納扁額
「江の島本宮巌屋弁財天と同体にして、弘法大師の作なり」と云えられるご神体は、護摩の灰を固めて自ら彫ったものとされる。別当寺となっていた「龍王院」を上宮と称し、こちらが下宮の位置付けらしい。但し、弘法大師とは年代差がありすぎるのでご神体が御自らの作かは疑問が残るが、江の島の弁財天では弘法大師の手形が押された護摩修法による弁財天像を拝観できるようだ。

「水神社」……白い鳥居が特徴的だが、この地にもともと鎮座していた水神社。祭神は「水波乃咩命(みずはのめのみこと)」であり「羽田神社の兼務社」ということ以外、由緒は不明だが、治水、折雨、止雨など水の神様として多摩川に面すこの地に必要だったことは間違いだろう。漁業の町羽田にかかせない海上安全と大漁を祈願する「水神祭」は、沿岸の埋め立てなどで漁業権が放棄された昭和37年(1962年)以降も続いていると。近くの多摩川沿岸から出発し、約2キロ先の海上に立つ「御神酒上げ棒(おみきあげぼう)」と呼ばれる柱に向かい、船上で宮司祝詞(のりと)をあげ、御神酒や塩、シジミなどを海上にまく神事。昔は年3回行われ、どんな荒天でも中止されることがなかったとのことだが、現在は5月11日の1回だそう。それでも「猟師町羽田」の伝統行事を地元の人々が受け継いでおいでのようです。事故なく、ずっと続きますように……

引き返そうと思ったら、境内の隅っこに……

地蔵尊……

木像のようだが、心無い人に盗まれないかと心配した。

南無妙力地蔵尊……

妙力地蔵尊の前から見た境内……なぜ妙力地蔵尊がこんな寂しい場所にポツンとおいでなのか? 理由は「白魚稲荷神社」の参拝後に分かったが、現在はどうしているだろう。

今日の「My First JUGEM」は……『初見参のGRAND Calbee』